無意識に根付く -8

待ち望んでいた言葉が確かに鼓膜を揺らして、そこから確かに頭に伝わった言葉は、ユーエの思考能力を根こそぎ奪っていった。
ただ、ぽかんと彼を見つめることしかできない。有限実行の勇者の、青い海の深みの色の瞳を見つめたままで、動くことすらできなくなる。
あの世界で最後に彼が吐いた言葉は、詭弁なんかではなかったんだ、――一瞬でも疑ったことのある自分を殺してしまいたい。

「……ユーエ、こっち向け」
「あ、……?」

名前を呼ばれてアルの方に向き直れば、顎に手が添えられたかと思うと、くっと持ち上げられる。
そのまま唇を重ねられて、ようやく頭の中で理解が始まった。本当に戻ってきたんだ、わたしの、大切なひと!
混乱とはまた別の要因で頭がふわふわし始めて、深海の藍色の瞳はゆらゆらとせわしなく揺れた。

「……、あ、ぁ」
「ユーエ」

こつん、と互いの額がぶつけられて、青い海の深みの色が、ユーエを引きこむように見つめてくる。本当に綺麗な色をしていると思う、何よりも好きな、青色。
しばらくそうやってなにもしないで見つめ合っているだけで、ユーエは息が詰まりそうになる。目の前にいるのは、間違いなく、自分の大切なひとなのだ、ここで感じられているぬくもりは確かに彼のものなのだ、吐息がかかるたびにたしかに彼が生きていることを感じる、ああ。本当に、そこにいる。その事実だけでもう、十分だ。

「どうかしたか」
「……、……どうも、してない、」
「……ほんとか?」

アルがいたずらっ子のように笑ったかと思えば、そっと頬に口付けを落としてくる。
どうもしてないわけなんてない。自分はいつだって素直になれない、本当は、

「……そうやって、聞くの、ずるい」

わたしのことを、抱きしめて欲しい!
言葉以下の呻き声をあげながら胸に飛び込んできたユーエをぎゅっと受け止めて、アルは彼女の頭を撫でてやる。
2年前に比べて随分手入れされた髪は、何より好きな薄緑色。

「髪、切ったんだな」
「……うん、切った。お姉ちゃんが、少しは見た目気にしなさい、って、言うから」

ヘアバンドも、ハンターやめたから使わなくなった、という彼女の髪は、2年前の半分ほどの長さになっていた。それでもまだ十分にロングヘアと言えるくらいには長い髪は、すっかり指通りも良くなって撫で心地が良い。目にかかって邪魔そうにしていた前髪も、適度な長さに切られていた。

「アルは、少し髪伸びてる」
「ん、……そういやしばらく切ってないなあ、今度切るか」
「床屋連れてってあげる」

じゃあ頼むよ、と言った言葉の返答は、アルの頬に彼女からの口付けとして返された。
お返しにまた数度、ユーエの柔らかな頬に口付けて、それから彼女の左手を取る。

「ユーエ、指輪貸して」
「え?あ、うん」

差し出された指輪は自分には小さい。ユーエの小さな左の手の薬指に、そっと、はめる。
そのままそっと薬指にキスをひとつしたら、手を振りかぶった気配がした。

「っと!」
「ああ、もう!!」

恥ずかしさが先行した時に手が出るのは、2年前と何も変わっていない。顔を真っ赤にしながら、空を切った手を引っ込めるユーエを抱き寄せて耳元で囁く、――回避勇者をなめるなよ、と。
顔こそ見えないがきっと悔しそうな顔をしているのだろう、くぐもった唸り声が聞こえてきた。

「あ、アル、アルも、わたしに指輪貸してよ、」
「はいはい」

受け取った指輪に口付けてから、ユーエはアルの手を取った。
彼女より一回り以上大きい手を持て余し気味にしながら、彼の薬指に指輪を通して、ふにゃりと微笑む。次の瞬間視界が手で遮られたかと思うとやわらかなものが唇に触れて、

「へへー」

手が除けられた時には、満面の笑顔で笑う彼女がそこにいた。
その子供っぽい笑顔も声も振る舞いも2年前そのままで、どうしようもなく愛しい。

「……こんのやろー」
「アルとおんなじことは、しないのね」

得意気に笑うユーエが、こちらにもたれかかってくる。アルがそっと肩を抱いてやると、見上げるような視線が刺さった。
どこか不安げな藍色が、ゆらりと揺れた。


「迎えに来た、ってことは、もうどこにも行かないの?」

また、自分の目の前から消えていなくなることはないの?と、そんな意味を込めて、ユーエは問う。
もう二度と、あの辛い思いはしたくない。どこで何をしているかもわからない、無事でいるかも分からない時間を過ごしたくない。言葉と約束に縋って縛られて、そのためだけに生きてこれたのは、姉を始め周りの人間の力によるところが大きい自覚はあったし、何よりとても迷惑をかけた。二度目はもう、嫌だ。
不安が顔に出ていたのか、肩から一瞬手が離れたかと思うと、ユーエの体は彼の胸元に強く抱き寄せられた。

「ああ、どこにも行かない」
「ほんとうに?」
「ほんと」
「嘘ついてない?」
「……ついてない。……お前、ほんとに変わってないな」

ユーエの眉間にしわが寄る。それを見れば、アルは苦笑するしかない。
疑心暗鬼で臆病なその問いかけは、昔何度もされて、そして彼女を傷つけることになった。あの時は、もっと早く言っておけばと後悔したけれど、そうしていたら自分たちはどうなっていたのだろう。
ユーエは、諦めて早いうちに離れていったのだろうか、――でも、アルキメンデスは、あの時の自分の判断を間違えたとは、思っていない。

「……だって」
「だって、何だ」
「もう嫌、よ、アルがまた、わたしのところからいなくなるの」
「俺だって嫌だよ、ユーエから離れるの」

真剣な顔のユーエを眺めていたら、ついくつくつと笑い声が溢れて、睨みつけるような視線が刺さった。
彼女にとっては真剣な問題なのだろう、知っている、分かっている。だからこそ告げる、

「俺は、運命に勝ったよ」

ユーエが、自分がいなくなってから死んでやる、と言ったときから、決めていたことだ。
もっと早く片付けられればよかったんだろうけど、これでも、急いで無理をして、死にかけたりしながら成し遂げた。
もうダメかと思った時もあった。そのたびに、こんなところで倒れていられるか、と思った。それは、もちろん、

「ユーエのおかげだ」

約束したとおり、身に受けた呪いを力に変えて。
ユーエを死なせない、それだけのために、ここまで来た。

「……わたしは、なにもしてないよ」
「俺のために生きててくれただろ、俺のこと愛してくれただろ、……それだけで十分だ」

運命なんて、愛にかかればこんなものだ。どうとでもできる。
元より彼女に愛されなければ変えようとも思わなかったから、彼女の存在は大きい。

「……、ばかなの、……よくもこう、そんな恥ずかしいこと、言えるのね」
「馬鹿でいい」

久しぶりに聞いたその言葉も、どこか心地よかった。
本の中で何度も何度も言われた言葉だ。それくらい好きだった、いやもちろん今もだ。

「……知ってる、……、……ほんとに、もう、どこにも、行かないの、」
「行かない。ユーエと一緒にずっといる。言っただろ、お前と一生添い遂げるって」

アルの真剣な目は、嘘を付いているような目ではなかった。
この人は本当に馬鹿だと思う、どうして、自分のためにここまで出来るんだろう、相変わらず自分に自信が持てないユーエはどうしてもそう思わざるを得ないけれど、言われる言葉は全部が全部、とてつもなく嬉しい。

「……ばか、ばかなの、……うれしい、だいすき」
「……俺も大好き。愛してる、ユーエ」

ユーエの両の頬に手を添えて、真っ直ぐに、深海のような藍色の瞳と向き合う。吸い込まれるような藍色の虜になって、2年以上経っている。深く儚く、そして何より美しい色。沈んだものを逃さない色。
そのまま深く口付けた。2年分の空白を埋めるように、激しく。

「ふ、ぁ、……」
「……ユーエ、ユーエ」

もう絶対に手放さない。何があっても、絶対に。邪魔するものがあれば何だろうと、突き殺すまでだ。
存在を確かめるように何度も名前を呼んで抱きしめているうちに、気づけばユーエが心配そうな目を向けていた。

「……、……アル、どうしたの」

目の下を拭われてようやく勇者は気づく、

「どうして、泣いているの」
「――え、」

次の瞬間には頭に手が伸びて、ふんわりと抱きしめられた。彼女のやわらかな胸に抱き寄せられる、心臓の鼓動が聞こえる。
そうされている間にも、ぼろぼろと溢れる涙が収まることはなく、ユーエの服の上に零れては、服の繊維に吸い込まれて消えていく。

「俺、は、」
「アルも、つらかった、でしょう、わたしのために、たくさん頑張って、その分、つらいことも、いっぱいあったでしょ」
「俺、より、ユーエが、ユーエを、……待たせてたから、ユーエのほうが、」
「こっち向いて」

言われて顔を上げるアルの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
見たことがある。こうやって泣く姿は、片手で数えられるほどしか見たことがない。ユーエの方がずっとずっとびーびー泣いて、そのたびに抱きしめられて頭を撫でてもらっていた。彼が泣くだなんて余程のことで、今は十分、その余程、だと思う。
まだ何か言おうとする口を、強引に塞いだ。長く、深く。

「おたがいさまね」

唇を離してそう言い放てば、ようやく観念したのか、何も言わない代わりに腕が伸ばされる。

「……わたしが、アルの帰るとこ。強いアルはもちろん好きだけど、わたしの前では、弱くてもいいのよ、……むしろ、わたしの前だけでしか、弱いアルは、許さない、のね」

そっと抱きとめる。2年前より伸びている青い髪を撫でながらそう言って、彼が落ち着くまで待った。


「……時々ユーエには本当に驚かされるよ」
「何が?」

ようやく落ち着いて口が回る余裕ができて、アルはひとつ大きく息を吐きだす。
目の前の彼女は、子供だと思っていたら急に大人になって、その次の瞬間にはけろっと子供に戻っている。
庇護欲を掻き立てる癖にとんでもない包容力を持っていて、彼女が大人なのか子供なのか、時折わからなくなる。

「なんでもない。そういやお前いくつになったんだ」
「24になったのね、アルは」
「26だよ、……ああ、じゃあ、時間の流れはだいたい同じだったんだな」

不思議そうな顔をされたが、説明が面倒だったので(というか睨まれる気がした)、話をすっと逸らしてやる。
ほぼ同じ時の流れを過ごしてきたことを確認して、少しばかり安心した。それとも偶然、適当な時間軸に降り立つことができたのか、どちらだろう。再会が叶った今ではもう、気にするまでもないことかもしれない。

「……よく、分かんないけど、会えたから、それでいい、わたしは」
「そう言うと思った、……俺もそうだけど。いくつになってもユーエは、俺の可愛い嫁さんだからな」
「その口縫い付けていいのね?」
「えーやだよ、縫い付けるくらいだったらこうしてほしいぜ」

そっと口付けて、その口を数瞬塞いでやれば案の定、悔しげな顔が赤く染まっている。変わっていない。

「……なんなの、ほんとうに、なんなの、……なにも、変わってないのね」
「ユーエもな」
「大人の2年なんて、そんなものね」

そんな劇的な変化なんて、起こりっこない。そう言いたげなユーエの腰に手を回して抱き寄せて、そっと首筋にひとつ、口付けを落とす。
ユーエの肩がびくりと跳ねる。

「ちょっと、もう、……ああ、ねえ、アル、わたしあなたに言ってないことがある」
「ん、何だ?」

ゆるゆるとアルの肩に手を回しながら、ユーエはそっと耳元で囁いた。

「――おかえりなさい、アルキメンデス」
「……ただいま、ユーエ」

2年振りに交わした言葉が、二人きりの部屋に響いて、静かに消えた。