無意識に根付く -9

ふわりふわり、それから過ぎていった時間はほんとうに夢のようだった。
ページ捲りに頭をひねる必要もなければ、いつか分からない再会の日を待つ必要もない。ずっと心の奥底で抱いていた、いつ訪れるか分からない別れに怯える必要もない。
アルムはここぞとばかりにリーリオの家に入り浸ったり、そもそも研究所でよく夜を明かしているので、ほとんど家に帰ってこなくなった。それをユーエが咎めたら「うるせえリア充爆発しろ末永く!!」と切り返されたらしく、とても無意味な喧嘩が起こったとか、聞いた。気を遣ってくれているのか、彼女もユーエから解放されて羽を伸ばしているのか、その判別はつけられなかった。
ただ、アルムに頭が上がらないのは本当で、アルキメンデスもヴィアベル研究所で働けるように手を回してくれたのは彼女だ(――すごいいい笑顔で、職権はこういう時にフル活用しないとね、とか言われた)。彼は生物の知識がないに等しいものだから専ら雑用係のような扱いではあったが(あとさすがにバイト扱いだった)、ユーエがとにかく嬉しそうな顔をするものだから、こんな生活も悪くはないなあと思う。
どうしても物足りなく感じてしまうのは、その身に受けた呪いのせいだったとはいえ、一所に留まらずにあちらこちらを飛び回っていたせいだろうか。
良くも悪くも無変化で、どうしようもなく平和な。

「……平和、だなあ」
「うん」

ユーエの料理は2年の間にずいぶんと上達していて、得意な料理はハンバーグ、なんて笑顔で言うのだ。
アルキメンデスが彼女に初めて食べさせた料理がそれで、ユーエが初めて作ってくれたのもそれだった。彼女の料理のレパートリーはほとんどが本の中で食べさせたことのあるもので構成されていて、なんだかくすぐったい気持ちになる。

「平和なのは良いことね」
「それは分かるよ、……ただ、どうしても、暇だなって思っちゃってさ」

彼の気持ちは分からなくもない。
ユーエだって、ハンターをやめてこちらに越してきてすぐはそうだった。ここの海は今は平和で、平坦だ。

「んん、……、……あ、ねえ、そうだ」
「なんだ」

藍色の瞳が近づいてくる。
鼻先が触れ合うような距離まで来てから、ユーエは口を開いた。

「わたしの故郷、ここから遠い、って話は、前にしたよね」
「ああ、うん。一番早くても2日はかかるんだったっけ」
「行こう」

そう言って椅子に座ると、ユーエは自分の故郷の話を始める。
この国が科学技術に特化した国なのは、ヴィアベル研究所を見ればすぐに分かることだったが、ユーエとアルムの出身の国は、自然が豊かな国だという。ここよりも。良く言えば自然と共存している国で、悪く言えば技術的にとても発展途上。同じ世界のくせして、その様相は大きく異なる、とも。
この世界は不安定で、どこかで別の世界と繋がっていて、そこからの流入が多少なりとも影響しているとかなんとかリーリオだかアルムだかが言っていたのを聴いたことはあるけど、難しいことは分からない、と言葉を終わらせて、ユーエはアルキメンデスの方を見て、言う。

「世界がどうとか国がどうとか言ったけど、わたしは単に、わたしが過ごしたところをアルに見せたいだけ、なの」

出会う前。死んでもいいとすら思っていた頃。世界に希望なんてなかった頃。

「――それに、あの頃お世話になった人たちに、また会いたいな、って思ったから」

引越の際に挨拶はしたけど、落ち着いたら遊びにおいでね、とみんな言ってくれた。
一人で戦っていたつもりでいたけど、本当は周りに支えられていたことに、離れてから気づいた。

「ん、そうか。じゃあ行くか、一緒に」
「うん」

そのまま軽く触れ合う程度のキスをして、手を伸ばして薄緑色の髪を撫でる。今日はひとつに結んでいた。かわいい。

「わたし、アルといろんなところに行きたい」
「旅か、……それもいいな、ついでに世界も超えちゃうか?」
「それでも構わないわ、アルがいるならどこでだって生きていける」

穏やかに微笑んだ藍色の瞳が、ゆらりと揺れた。
その言葉に嘘偽りはないのだろう、

「俺も。ユーエがいるなら、どこだって」
「知ってる」

そしたら明日早速お姉ちゃんにお話するね、なんてふわりと笑って、嬉しそうな顔をする桜の花は何より愛しい。
何があってもその花を散らさないように護るのが、雑草よろしく何度踏まれても起き上がってきた自分のできることだ。
互いの心に根を張って、ずっと一緒に生きていく。

「たまにはお姉ちゃんに顔見せないと、怒られそう」
「そうかあ?20年離れてたんだし、少しくらい平気だろ。リーリオさんだっているしな」
「……そうね、わたしもお姉ちゃんのこと、心配し過ぎなのかな」

指を絡めて握り合った手のやわらかなぬくもりが伝わって、揃って笑顔の花が咲いた。