無意識に根付く -7

自分のベッドに寝かされた誰よりも大切なひとを、自分の知る姿に引き戻すことができるのは、自分しかいない。
正直なところ折れそうで、逃げ出したくて、自分には荷が重い。どうしてわたしひとりの肩に全てのしかかっているのだろう、とすら、思う。けれどそれは、彼の全てを受け入れると決めた時から、そう定められていたことに違いない。だから、頑張れる。

「……アル、」

早く、思い出して、そしてわたしのことを抱きしめて。
倒れた時に比べると幾分穏やかな顔で眠っている彼の手を強く握って、彼の眠る横に倒れ伏す。

「アル、……、っ、うぇ、……うええ……」

握った手の暖かさが、手に染みて胸に染みて、気づいたら溢れる涙が止まらなかった。
すん、と鼻を鳴らす音も、口から勝手に零れる嗚咽も、抑えられない。

手を握られている感覚の中薄ら目を開ければ、見た回数がそろそろ両手で数えられなくなりそうな天井が、視界を埋める。
ぼんやりする頭の中は、誰かにかき回されたように混沌していたが、妙に気分はスッキリしていた。重苦しい真っ暗闇の中にいたと思っていたのに、ちらちらと桜の花弁が舞っていたあの場所はどこなのだろう。
握られた手に刺さる痛みを感じる。

「……?」

隣で倒れ伏しているユーエが、自分の右手をしっかりと握っていることに気づいた。刺さったのは彼女の爪だ。
肩を震わせて、泣き声を殺すこともせず、彼女はそこで泣いていた。
――どうして、どうして泣いているんだ、

「ユーエ」

彼女の手を握り返して身を起こしたアルキメンデスは、強引にその身を抱き寄せた。
はっとした顔が見えたが、それを気にしてはいられなかった。目の前で泣かれていることの方が、ずっとずっと辛い。
女性にしてはしっかりとした体つきのはずの彼女の身体が胸の中に収まった瞬間に、どうしようもなく華奢でか弱いように感じられた。思わず、強く抱きしめる。

「あ、……あ……? アル……?」
「ごめん、……どうして、泣いているんだ、何かあったのか」

そう問いかけた言葉に、返答の代わりに返されてきたのは堰を切ったような泣き声だった。
小さな子供が泣きじゃくるようなそれは、何度も、何度も経験したことが、確かにある。

「お、おい、大丈夫か」
「ごめん、なさ、い、ごめんなさい、……もう少し、だけ、このままで、……」
「……ん、わかったよ」

自分に縋ってくる姿が、愛しくて、懐かしい、――懐かしい?
もういいです、大丈夫、と言ってくる彼女を離すことができなくて、自分でも戸惑った。

「アルこそ、……あなたこそ、突然倒れるから、何が、あったのかと、……すごい、心配で、……」
「悪い。……急にひどい頭痛がして、立ってられなくなったんだ」

倒れる前の、アルムとの会話が頭をよぎる。貴方が踏み出すほうがずっと早い、と、彼女は言っていた。
臆病だからと語られた腕の中の彼女は、さながら小動物のように震えている。聞いていいものなのだろうか、けれど、――もう迷わないと決めた。

「……ユーエ、君に聞きたいことがあるんだ、」

抱いていた手を離して彼女の肩を掴むと、その肩がびくりと跳ねた。不安げな藍色がこちらを見据え、怯みそうになる。
深い深い海の底の色。まっすぐに見つめれば、溺れそうになる。

「――ユーエの知っていることを、全部教えてくれないか。俺について知っていることを、……全部」


覚悟は、していた。
いずれ話さなければならなくなるだろうことは分かっていたから、いつ聞かれても、話そうとは思っていた。
ただ、いざそうやって言われると、息が詰まる。全部話してくれとは言われたけど、そうなるとつまり必然的に結婚したことまで話さなければならなくて、それは、なんだか、すごい恥ずかしい。とても恥ずかしい。
でも、――できるのは、自分しかいない。

「……分かった、……ちょっと、離してもらって、いい?」
「ん、ああ」

今、あの本を開かなくていつ開くのだろう。
そっと立ち上がって、本棚の奥底から分厚い本を引っ張りだす。無名にして無題の古びた本は、ずしりと重たい。あの日彼に告白して、ページをまた捲れるようになってから、ページを捲るときに彼と一緒にいなかったことはない。ページのほとんどを自分と彼とで埋めた本は、埃にまみれていた。

「……それは?」
「今から話すことに、絶対に、必要なもの、です」

本を抱えてベッドに腰掛けると、アルキメンデスもその隣にやってきた。
すぐ傍に感じられる熱量に否が応にも胸が高鳴り、本にかけた手が震える。
――そうして、ユーエは口を開いた、


「わたしがあなたと出会ったのは、この本の中の世界でした」

 その本は本当に不思議な本で、ページは白紙、しかも一筋縄では物語の先に進めない、そんな世界での、とある狩人と勇者のお話。
 ある朝起きたらその世界の中に放り出されていたわたしは、まずは生きることに必死になって、あっちこっちふらふらして、寝る場所の確保もままならないうちに、初めてあなたと出会いました。
 その時のわたしは本当に臆病で、他人が怖くて、ひとりぼっちが怖くて震えていて、そんなわたしに手を差し伸べてきたのがあなたで、そのときわたしはひとに優しくされるのすら怖くていたけれど、あなたの手をとって、甘えることに、したのです。

語る口ぶりは他人事のように、ここではないどこかを見ながら。
何も言わずに語り手を見つめる青い勇者の手をとって、一緒に本を開く。
目次に並ぶ複数のタイトル、ぱらりぱらりとページをめくると、見覚えのある姿がそこにある。

「……これ、は、」
「――初めて一緒に行ったのが、とある勇者のお話の9ページ目、それから少しページが捲れなくなった時期があって、その後は、ずっと、一緒」

捲るページには必ず、青い髪で剣を構える男がいる。その隣で薄緑の長い髪をなびかせた女性が、立っている。

「……これは、ユーエか」
「うん、そう」

大振りのナイフとハサミを構えて敵に向かう彼女の姿は実に勇猛果敢で、腕の中にいた時の、壊れそうで華奢な姿はどこへ行ってしまったのだろう。青と薄緑が勇ましく並んで立つ姿が、ページを捲るたびに目に入る。

「……それでね、」

 あなたはとても、わたしに優しくしてくれた。
 他人から優しくされたことのなかったわたしに、とてもよくしてくれるから、わたしは特別なのかな、って、でもそんなことはなかった。
 みんなに平等に優しくする中のひとりでしかない、ってことに気づいた時に、とても苦しくて、胸が締め付けられる思いで、

「わたしは、あなたに、恋をした」

初恋だった。
人とろくに関わらない生活をしてきた自分が、こんな気持ちを抱くなんて、と、当時は思ったものだ。

「ユーエが、俺に」
「そう」

恋は叶った。
それは同時に、彼の運命を受け入れることでもあった。

「――アルは、わたしに言ったわ、強制的に他の世界に飛ばされる現象に何度も襲われていて、それはいつ起こるかも分からなくて、……予兆が来たら、あなたの意思なんて関係なしに、数日後には消えてしまうって」

それでもいい、とわたしは言ったの、と言いながら、ユーエは自分の首元に手を伸ばす。かけているチェーンネックレスに指を引っ掛け、服の下から引っ張りだした。
通されていたのは、指輪が一つ。

「……!」
「わたしは、あなたがわたしの前からいなくなったら、死ぬつもりだった」

首の後ろで器用にチェーンを外して、指輪を手の上に転がしながら、

「けどね、あなたは、わたしに言ったわ、――結婚しよう、って」

だから死ねなくなった、と、事も無げにいう彼女の表情が、暗闇の中降ってきた声と、ダブる。
ノイズがさざめいて心に広がって、ぞくり、背筋に何かが走った。

「――それで、あなたは、わたしの前からいなくなるときに言ったの、」



絶対に迎えに来るから、待っててくれ、って。



疑惑が確信へと変わっていく。

「わたしも言った。ずっと待ってる、わたしのことを迎えに来るまで、絶対に待ってるからって」

深海の底から手が伸びる。藍色の瞳がアルキメンデスを見据えたまま、そっと、頬に彼女の手が触れる。
そのまま一撫でして引っ込められた手が離れていくのが、嫌になる。

「――これが、わたしの知る、あなたについての全て、なのね、」

一息置いて、ユーエは確かに言った。

「わたしの、大切なひと、誰よりも愛しているひとが、あなたなの」

そう言って微笑んだ顔が頭の中へ、それよりもっと奥深くへ、すとんと落ちていく。
何度も夢に見た靄の掛かった誰かの顔が、その瞬間ふわりと笑って、悲しそうな顔が、穏やかに微笑んで、入れ替わる。

うさぎは、ここだ。ここにいる。

「そう、か、……ッ!!」

目の前のうさぎの存在を知覚した瞬間に、頭の中にどっと溢れてくる、情報。記憶。
彼女が差し出した記憶と絡みあうように自分の中で大量の情報が再構成され、頭の中を駆け巡る。

「アル、」
「ふ、っ……! 大丈夫、だ、」

本の世界の前からのことが一気に追体験されていき、渦巻く記憶に意識が押し流されそうになる。霞む視界に何故か、桜の花弁がちらついた。
隣から手が伸びてくる、

「わたしは、ここにいるのね」

凛とした声が確かに支えになった。伸ばされた手をしっかり捕まえれば、随分と意識がはっきりした。
戦いの記憶も、何度も心が折れそうになった記憶も、そのたびに立ち上がった記憶も、戻ってくる。自分は何のためにここまで来たのか、そうだ、思い出した、


――俺は、迎えに来たんだ、全てに、打ち勝って!!


「……アル、……痛い、つめ」
「――あ、……悪い、ごめん、そんなつもりは」

爪を立てるほど強く握っていたユーエの手を離して、アルキメンデスはベッドの傍らの机の上に無造作に置かれていた、自分のポーチを手に取る。開けて中を探れば、目的のものはあっさりと見つかった。
ユーエが首にかけていたのと揃いのそれは、いつだかに左手を怪我した時に、治療のために外して、そのままにしていた。

「ユーエ」

名前を呼ばれた彼女が返事をするより早く、アルキメンデスの両腕が彼女を抱きしめる。
もう離すまいと、強く、強く。

「……? アル?」
「ごめんな」

彼女は本当に強くなっていて安心した。
素敵なお姉さんに恵まれていてよかったとも思った。
料理が上手になっていて嬉しかった。
自分が教えた料理を得意げに作ってくれたのが嬉しかった。
何より、本当に、待っていてくれたのが、嬉しかった。
見ないうちに、綺麗になった。

「アル、」
「ごめん。本当に、ごめん」

この2年間、自分も辛かった、ユーエを待たせているのがとにかく辛くて、がむしゃらに動いた。危ない時もあった。怪我だってした。当たりどころが悪ければ死んでいたぞ、と言われたことだってある。
だからこそ、今こうやってまた抱きしめられることがなんと幸せなことか、

「待たせて、ごめんな」

もっと早く、来れればよかったのだろうか。それとも、これでも十分に早かったのだろうか。
無事に会えた今となっては、そんなことはもうどうでもよかった。

「……アル、」
「思い出したよ、……ごめんなユーエ、2年も、待たせて」

昔溺れた深海の色が、こちらを見つめてくる。
もう一度また、その深みに飛び込んで、もう絶対に手放さない。


「迎えに来たよ、ユーエ」