無意識に根付く -6

先程までユーエが仮眠を取っていた部屋のソファまで、アルキメンデスを運んで寝かせたところで、ユーエがわあわあと泣き出した。
ずっと気を張っていたのだろう、姉に縋ってびいびい泣く姿は、随分と久しぶりに見る気がした。

「ユーエ、頑張ったね、ごめんね」

妹に優しく声をかける姿も、久しぶりに見る。

「おねえ、ちゃ、……わたし、わたし、」
「だーいじょうぶだって、お姉ちゃんもいるし、リーリオだっているよ、……アルキメンデスだっている、ほら、――大丈夫、だって、ね」

妹を宥める手つきも慣れたもので、アルムはふんわりと妹を抱きしめると、右手でとんとんと背を叩く。
そのまま撫でるのに移行して、しばらくそうやって背中をさすってやれば、思っていたよりすぐに落ち着いたのか、目元を拭って顔を上げる。
辛そうな顔こそしていたけれど、合言葉は、

「……わたし、が、しっかりしなきゃ」
「よくできました」

無事に全部終わったら思いっきり甘えさせてもらいなさい、二人で何処か旅行に行くでもいいわ、と言って、アルムはすっと左腕を肩の高さまで上げた。
その動作だけでこれからやることを理解して、ユーエとリーリオは押し黙る。

「――コールパライバトルマリン、咲良乃アルムの名において命ずる、……お前の、出番だ!!」


上げられたアルムの左腕の上に、白い蛇のようなそれは静かに顕現した。
たてがみと触手をなびかせて腕の上に降り立つ姿は、普段の言動からはとても想像できない神秘性を放っていた。

「……ご命令を、咲良乃アルム」

そう言って顔を上げたパライバは真剣な顔をしていた。

「あんた今日は随分真面目なのね」
「うるせーやい。ぼくだってユーエが心配なんだ、……、……こいつも」

勘違いするなよこいつが元に戻らないとユーエがだめだから言ってるのであって、なんてぎゃあぎゃあと言い訳を始める白いやつの頭を小突くと、すぐきりっとしした表情を見せる。
きっと2年前からこいつは全然素直になれなくて、あれだけ突っかかっていたんだろう。結婚式の時にびーびー泣いていたことを今言うのは、ちょっと酷だなと思ったのでそっと閉まっておいた。
過去の遺物の力を、今こそ最大限に活かしてやる時だ。父親の置き土産が役に立つ時が来るなんて、誰が思っただろう。面白がって興味本位で、ちゃんとした使い方を聞いておいて、よかった。

「……まあいいよ、さあ行け、探るよ」
「へへん、ついでにちょっともらってこようかな

白い鼻先がアルキメンデスの額を小突いたかと思うと、パライバの身体は霧散して消えた。




暗闇が広がる中、ゆっくりと下に沈んでいく感覚だけが、そこにあった。
水の中にいるような、しかし苦しいわけではなく、何も感じず、何も聞こえず、ただ、沈んでいくだけ。どこに落ちているのかも分からず、もがく気力もなく、ゆるやかに、おちていく。

(ああ)

何も、思い出せないまま。

(早く、行かないと、いけないのに)

どこかで泣いて震えているはずの、うさぎを。
早く、早く行かないと、死なれてしまう。うさぎは寂しいと死んじゃうのね、なんて、他人事のように語っていたけれど、それをしかねない危うさを、あれは持ち合わせていた。死にたがりのうさぎが、自分から罠に掛かりに行く前に、捕まえに行かなければならないのに。
どうして今自分は何もできなくて、辛そうな顔をしているのに抱きしめてもやれなくて、迎えに行かないと、迎えに行かないといけないのに、どうして、目の前の、存在が、

『待ってる』

また声が聞こえる。誰の声だろう。分からない。

『わたしのことを むかえに くるまで』
『ぜったいに まっ てるか ら』
『しなな い で』

待たせている、彼女の声だろうか、随分と最近に、聞き覚えがある気がして、ならない、

『  』

手を強く掴まれる感覚があった。
ゆるやかに落ちていた感覚から、どこかに引きずり込まれるような感覚へ、落下速度が段違いに変わり、得体のしれない恐怖が押し寄せる。

『ごめんなさい』
『   い』
『しに  』
『 にた 』

断片的に頭の中に響いてくる声がパズルのように組み上げられてひとつの意味を成す、それは彼女がごく初期の頃、口癖のように口から放っていた言葉だ。
――やめろ、やめてくれ、それだけは、俺の手から離れて行かないでくれ、

じゃあどうして、今俺の手元にないんだ

「あ、ああ、」

どこに置いてきたんだ。違う、迎えに行かなければいけないんだ、迎えに、迎えに!
迎えに行ってこれでもかと強く強く抱きしめて、それから何度もキスをして、言わなきゃいけないんだ、迎えに来たよ、って、なのに、なのに……

(俺は、どうして)

(どうして)

(何もわからないんだ)


真っ暗闇の中にひらりひらり、桜色の小さな花弁が飛んだ。



パライバトルマリンの種族は本来、魔力を食べる生き物として制作されていた。
それでいて使役されることを前提に制作されており、本来は1対1の契約の元、魔力を持たない人間が魔法を行使するための、力の媒体であり、制御機構であった。
それがなんの運命の悪戯か、パライバは意識を手放している相手からでないと魔力を奪えないかわり、魔力だけでなくあらゆる精神的なものを食べ、それを魔法に変換することが可能だった。
彼をベースに欠陥を埋めた生き物が作られようとしたが、変異の再現が難しく放棄された。そして戯れのように弄られて、後付けの被のうと触手と発電器官が与えられ、戯れにすら飽きられたかなんなのか、ろくに構ってもらえなくなった頃に、別の国からやってきたという博士に拾われたのだ。
自分にできることを全てまとめてくれて、かわいい遊び相手までくれたあの人が死んでしまったのは本当に惜しいと思うけど、立派になった遊び相手とその妹と、その大切な人の役に立てるというのなら、これほど素敵なこともないのではないだろうか?

深く、深くに降りていく。
真っ暗な中に、ひらひらと花弁が飛ぶ中を、できるかぎり急いで降りていく。

相手が意識を手放してさえいれば、心の中に入り込むことができることを教えてくれたのも先生だった。よくわからない黒い空間というのは心の中で、そこに辿り着けるのもきっと変異の影響だろう、という話をされたのを覚えている。
真っ暗闇の中にもし見えるものがあったら、それはその人に大きく影響を与えているものを探る手掛かりになるよ、と。心の中というのはつまりその人が抱えている世界で、その世界を読み解くことで、意識のさらに下に根付いている問題を解決する糸口になる。それを信じて初めて周りを意識しながら潜り込んだのは、子供の頃のユーエの心だった。
その頃に比べれば試行回数も自分の知識も増えているから、きっと、ユーエの助けになるはずなのだ。

そう考えるパライバの視界を、薄緑のうさぎが跳ねて横切った。

(……うさぎ?)

ユーエとアルムの髪と同じ色のうさぎ。
跳ねていった先から、桜の花弁が飛んでくる。

(……ああ、あれは、ユーエか)

うさぎが跳ねていった先へと進むと、そのうち見えてきたのは一本の桜の木だ。
花をつける数も少なく、お世辞にも立派とは言えない桜の木を前にして、男が呆然と立ち尽くしている。その足元で、うさぎが彼のブーツを引っ掻いていた。

(わあお、……想定以上に、露骨だ)

無意識に根付くさくらの木。
木の根の力は、想像しているよりずっと強い。

(幸せの青い鳥は、近くにいるのに気づかないんだ、……ああ、この場合、うさぎ?数え方は同じだし、いいのか)

ふっと立ち尽くす男の方を見れば、その端正な顔には目隠しがされている。
足元にぱらぱらと散らばっている壊れた鎖が、鈍く光っていた。

(アルキメンデス)

鎖は何を示しているんだろう。
記憶を縛る鎖か、それとも別の、彼を縛っていた運命か。
今分かることは、目隠しを取るまで、彼はうさぎも桜もとらえられない、ということだけだ。
強く干渉できる能力は、パライバは持ち合わせていない。これ以上は情報を得られないと判断して、ゆっくりと離脱していく。
離脱していく途中で見えた、数多の血なまぐさい事象は、無視した。今必要なことではない。



「パライバ無事帰還しましたぁー」

そう言って顕現するパライバの、たてがみの青味が強くなる。
彼が見てきたことを手短に語れば、ユーエはきゅっと口を固く結んで下を向き、アルムとリーリオは即座に、その頭を働かせ始めた。アルムもリーリオも本当に頭のいい人だから、ユーエは周りに恵まれている。

「ユーエぇ」
「……なあに……、」
「元気出しなよ。今は確かになんにも考えられなくて無力だって思うかもしれないけど、君が頑張らないとほんとのこいつは戻って来ないよ」

ユーエも頭は悪くない。しかし目の前で、与えられた情報から頭をひねる姉とその彼氏に敵わないのは自分が一番知っている。
しかし、彼女の戦うべき時は、今ではない。

「だから元気出しなよ」
「……うん……」

視線を上げた先で、姉とその彼氏が熱い議論を交わしていた。


「露骨だねえ」
「ほんとね」

桜の木。うさぎ。目隠し。壊れた鎖。

「何かきっかけがあれば思い出すような、そんな段階、かな?ユーエ、頑張りましたね」
「もっと早いうちからパライバ突っ込んでデータ取りたかった感じすごいある、あー学会滅せよ」

この辺は研究者の性かもしれない。
恐らく明確に変化が見えた気がする、という確信を持って握りこぶしを作るアルムを、リーリオは呆れたような目で見つめるしかない。

「君の仕事だろう……、後は目隠しを取るだけ、か、僕あんまり鎖がピンと来ないんだけど、アルムはなにかあるかい」
「記憶を縛ってたかと思ったけどそれは多分目隠しで、鎖はなんか別物の気がする、――というか、そうであってほしい」
「……と、いうと?」

パライバが語る見てきたものに嘘がなければ、解決は近いだろうことは予測できた。
あとは、二人の問題になる。ユーエがもうひと頑張りする必要があるが。

「簡単に言うと、もうユーエが辛い思いしなくていいってこと」
「ああ、……解き放たれて、もう縛るものはない、と」
「そうであってほしい、……というかそうなる前にあの子の前に現れたんだとしたら私今度こそこいつ殺さなきゃいけない気がするのよね、さすがに許せないわ」

アルムの語るものが何なのか、リーリオには見当が付けられなかったが、それが原因で恐らく二人は引き離されたのだろうことは想像がついた。
そして冗談に聞こえない言葉が彼女の口から飛び出して、さすがに溜息がこぼれる。

「おいおい勘弁してくれよ、恋人が人殺しになるのか……、……あとは、ユーエが、頑張る問題なのかな」
「きっとそう、そうね、そうに違いないわ、でなきゃ目の前に現れてほしくない」

そういうアルムの顔は、こっちに来てすぐみたいになるのは、本当に勘弁してほしいと言いたげな顔だった。
それからすっと立ち上がる。

「……、……っで、じゃあユーエ、帰りましょう。リーリオ手伝ってね」
「ああうん、彼を運ぶのかな」
「もうひとつあるわ、私泊めてちょうだい」

ユーエが目を見開いた。リーリオは苦笑するしかない。

「なんだ、そんなことか、全然平気だよ。フレサもいるけど構わないよね」
「えっちょっお姉ちゃん、」
「あとはあんたたちの問題だってことよ」

ユーエの背中を力強く叩いて、アルムは言う。あなたがしっかりしなきゃ、と。
もう少し、もう少しだけ頑張ればいい、そうすればきっと、――

「……うん、がんばる、よ」
「よくできました。それでこそ私の妹だわ」

元より彼のためだったら、それこそ命まで捧げる覚悟だってできる自信はある。
命を捧げるのに比べたらなんと簡単な事か、だから、まだ、頑張れる。

うさぎである以前にハンターだ、狼を狩るのなんて、こわくない。