無意識に根付く -5

次の日、研究所に出てきたユーエの顔を見て、リーリオは頭を抱えたくなった。
明らかな疲労と寝不足が顔に出ている。無理を押して出てきたのは一目瞭然だった。

「……ユーエさん、ちゃんと寝ました?」
「ね、寝ました、お姉ちゃんの部屋で……」

その寝ました、はどう考えても、ベッドには入りましたと言う意味でしかないのだろう。
森の中を駆け回った疲労が抜けないうちに、精神的に疲弊したのを欠片も癒せていないのは、見れば分かる。

「アルキメンデスさんは、どちらに」
「咲良乃研のオフィス……です」

逃げてきたんだと、すぐに分かった。きっと彼は、ユーエがこんな状態なのを見たら心配する人間だろうし、ユーエとてこんな姿は見せたくないのだろう。家に置いてくればそれで済む話かもしれないが、それもそれで不安なのだろうし、できることなら一時も離れたくない、というような目をしていた。

「……ええと、アルキメンデスさんはだいたい私がここにいることを知っていますから、3階の学生室で、仮眠取りましょ?ね?」
「でも、けど、わたし今日、採集、」
「海に落ちて心配されたいですか?」

強い語調で制して、強めに肩を叩いて促せば、俯いた彼女はゆっくりと振り返って、部屋を出る。その背中に、あとのことは心配しないでください、こちらで何とかしますから、と声をかければ、よろしくお願いしますと言わんばかりに一度振り向いて、ドアが閉まる。そして聞こえる、階段を駆け上がる足音。
言ったとおりに動いてくれたのにはまず安堵して、それから大きなため息が零れた。手に負えない、というか、アルムはよく相手をしていたな、と思う。それはもう自分のことなどほっぽりたくもなる。二人とも、自分のことを顧みないところはよく似ているから、やはり姉妹なのだな、と思う。

「……どうしますかねえ」

最適解は、アルムの帰りを待つことのような気がしてならなかった。やはり自分では力不足だ。



記憶喪失、というのを逆手に取って利用してしまえば、アルキメンデスの行動を制御するのは実に簡単だった。彼自身もまた、自らの記憶を早く取り戻したいと願っていて、それについて今やれることをしますよ、と言えばユーエと引き離すのは容易い。アルキメンデスの行動を掌握するよりも、ユーエを休ませることの方がずっと難易度が高くて、疲れた顔で頑張ろうとするものだから、3日目あたりでついに睡眠薬を盛った。知られたら彼にひどく怒鳴られそうではある。アルムは一時期しょっちゅうやっていたのだけど。
そうやって何とか誤魔化し誤魔化しで一週間が過ぎた頃、研究所に待ち望んでいた嵐が舞い戻ってきた。

「きゃっほー私は帰ってきた!!たっだいまーおみやげあるよ!!」

案の定、リーリオはお土産を配り歩くアルムの荷物持ちをさせられている。幸いにも今日はフレサが来てくれていて、アルキメンデス(とユーエ)のことは彼女に任せてある。頼りになる妹でよかった。

「……アルム、いいかな」
「何?あ、これ貴方のぶんね、フレサちゃんにこっち」
「ああどうも。うんとさ、落ち着いて聞いてね」

自分のオフィスのドアを開けて乱暴に荷物を放り投げたアルムを逃がさないように、ドアを閉めて、持たされていたキャリーケースはドアの前に置いた。
アルムが怪訝そうな顔でこちらを見てくる。何かあるな、と物分かりがいいのはいいんだけど、この先がとにかく問題なのだ。

「――君は、僕に随分と、君の妹と青い勇者の話をしてくれたね、」

荷物を整理していたアルムの手が止まる。

「察しがいいだろうからもう分かったかもしれないけど、」
「どこにいるの」

荷物を放り投げた。こちらに迫ってくる。
四捨五入すれば180あるリーリオを見上げて、空色の瞳が強い語調で告げる、そこを退けと。何度もやられた手に、リーリオとてそう簡単には折れない。

「今僕のオフィスでフレサに相手をさせている、よ、……それと僕は退かないからな」
「退けって言ってるでしょう、あいつ、次会ったらぶん殴るって決めてるのよ、」

相変わらずアルムの発想は短絡的だ。

「僕の話を聞いてくれないか先に」
「退きなさい」
「僕の話を聞いた後なら、いくらでも」

体格と素の力は、性差でリーリオの方が優っている。
けれど、アルムはやたらと喧嘩は強いのだ。確実に急所を殴ってくる。

「……ぶん殴るわよ」
「ああそうやって、君はいつもそうだな。そうやって僕が退いたことがあったか、――いいからまず僕の話を聞け」

かと言ってそこで怖気づいて退くほどリーリオの心も弱くはなく、そもそも本当に殴られたことはまだ片手で数えるほどしかない。導火線に火がついて走りださんとしているところを、踏み消して冷静にさせれば割とどうにでもなる。今までだって何度もそうしてきた。
睨むようにリーリオを見上げていたアルムから何の解答もないことを見て、リーリオはそっとアルムの肩に手を置いた。

「――全部話すから、落ち着いて聞いてくれよ」

アルムが学会に出向く前の日の夜からのことを、ユーエから聞いたことも含めて全て。
彼の記憶喪失。彼女の苦悩。眠れない夜。一週間が過ぎた今、互いに精神的に参っているように見えること、まで。

「……だから開幕殴るとねえ、君が初対面の人間を殴る人になるんだよ、それはやめないか」
「それもそうね……」

息を吐きだして伏せられた空色の目に、心配の色が宿っていた。
この心配は片方にだけ向けられているのか、それとも両方になのか、リーリオには分かりかねる。

「さあ行こう、僕のオフィスにアルキメンデスさんはいるはずだ、フレサと一緒に。ユーエは、フレサに呼ばせに行くから」
「ユーエは、あの子は今どうしてるの」
「3階の学生室で寝てるんじゃないかな……、フレサが何も言ってこないからたぶんそうなんだろう」

片方だけの気がしてきた。
自分とフレサにと手渡された箱菓子を持って、アルムのオフィスを出て階段を登る。冷静さを取り戻したアルムは、自身を抑えるかのように、リーリオの一歩後ろをついてきていた。


「――初めまして、アルキメンデスです」

椅子に腰掛けていたアルキメンデスに、開口一番そう言われれば流石のアルムも面食らってしまい、平静を装って自分の名前を名乗り返すことしかできなかった。
初めましてどころか何度かぶん殴ったこともあるし、妹を両親の代わりに彼の元へ送り出したのも自分だというのに。忘れ去られているというのはこうも辛いことなのか、ユーエがどれだけショックを受けたかと思うとまた殴りたいところではあるが、リーリオの言うとおり、その顔には疲れが見える。疲れか、焦燥か、それとも罪悪感か。

「ごめんなさいね、うちの妹が迷惑かけてない?」
「……いえ、こちらこそ、すいません。ユーエに、……妹さんに、随分、無理させてしまっているみたいで」

仕方ないとはいえ、付きまとってくる違和感が凄まじい。こんな風に話す姿は見たことがない。それはきっと妹もそうなんだろう。
お互いに気を使い合ってごりごり削れていっただろうことが容易に想像ができて、この一週間、仕方ないとはいえ、何も手を貸せなかった自分を恨みたくなる。

「まあねー、あの子ちょっと頑張ろうとすると、自分のこと見えなくなっちゃうみたいで」
「……そうですか、……、……俺、分からないんです」

無難な答えを返し、どうしたものかと思考を巡らせていると、どこか遠くを見つめたぼんやりとした目で、アルキメンデスが口を開いた。
分からないんです、と。どうして、ユーエが自分にそこまで執着しているのか、と。そして気づけば自分も同じように彼女に執着しているような気がして、どうしてそう思うのかは全くわからないけれど、ただ、彼女が辛そうにしているのは、ひどく、苦しい。

「……俺、思ったんです、……ユーエは、俺のことを知っているんじゃないか、って。どこかで俺と会っているんじゃないかって」

何度か聞こうと思ったけれど、彼女が辛い思いをするのではと思って、聞けなかった。そう言って俯いた勇者は、本当にらしくない。
妹のいない場でこんな話になるのは想定外だったし、何よりここまでらしくない面を見せるほど、彼もまた、疲弊しているのかと思うと、神様はなんてことをしてくれるんだろう、という気分になる。
すっかり忘れていたのだけど、フレサにユーエを呼びに行かせたがなかなか戻ってこない。起きないのだろうか。
――ただアルムは、目の前にいるらしくない勇者が、とにかく気に食わなかった。

「……、そう、ね、あの子は、貴方のことを、よく知っているわ」

アルム、いいのか、と、リーリオの制するような声がする。そんなの知るもんか。
はっと目を見開いた、困惑に揺れる海の深みの色を見据えて近寄った空色は、静かに上から、言葉の雨を降らせる。

「そして私も貴方のことを知っているわ、忘れもしない、あの子だってそうよ、――なのにあなたは」

何があったのか知らないけれどよくも、忘れてくれたな、妹のことを!

「だからこそ言うわ、今の貴方はらしくない、――私の、あの子の知っている貴方はそんな風には悩まないわ、歯ぁ食いしばれ!!」

戸惑った表情を浮かべていたアルキメンデスの頬目掛けて、アルムの無慈悲な張り手が繰り出された。
ユーエが嬉しそうに語っていた、アルはね、前に立って、敵の攻撃をひょいひょい避けるのよ、なんて、そういえば私も渾身の張り手を避けられたことがある、そう思う中振り抜かれた手に、確かな手応えが走る。
小気味いい音を立てた右手にびりびりと衝撃が伝わってくる、それは向こうの左の頬も同じだろう。

「アルム!!」
「リーリオは黙ってろ!!」

本当ならここから、胸ぐら掴んでもう数発引っ叩くコンボを決めたいところだったが、そこは辛うじて踏みとどまった。
見下ろす海の深みの色から、すっと迷いが引いていくのが見える。

「――何を一体迷っていたの?踏み出しなさい、あの子は臆病だから、貴方が踏み出すほうがずっと早いわ」

そう言って笑えば、見返してくる海の深みに、確かな決意が宿ったのを確認できた。そうだ、それでこそ、私の知っている勇者だ。
妹を預けるのに相応しいと思った時の目に、よく似ている。

「……そうよ、それで、いいわ、」

控えめなノックが言葉を遮る。それから返事を待たずに扉が乱暴に開いたと思うと、険しい顔をしたユーエがそこにいる。
きっと扉の向こうで、途中から聞いていたんだ。

「お姉ちゃん」
「何かしら」

殴ったことを怒っているのか、それとも自分がいないところで話を進められたことに怒っているのか、その判別はリーリオにもフレサにも、もちろんアルキメンデスにもつかなかった。
姉に食って掛かるユーエの胸元で、何かがきらめいている。チェーンネックレスの先のそれは、

――見たことがある、

「……ッ、……!?」

アルキメンデスがそう理解した瞬間に、彼の頭を、身を起こしていられないほどの激痛が襲った。その身体が声を上げる間もなく崩れ落ちる。

「ぁ、――アル!?」

何かに強く押さえつけられているような感覚と刺すような痛みが継続的に襲いかかり、視界すら霞む。
ここではないどこかから手を伸ばしている何かが囁く、

『――』
「あっ、が、うあ、」

『待ってる』

『あなたが、』


『わたしのことを むかえに くるまで』
「――!」

それきり意識が途切れて、視界が暗転する。
深く深く、海の底へ落ちていくような――