無意識に根付く -4

それで、その何とも言えない雰囲気に息が詰まりそうになっていたところに、手を差し伸べてくれたのもリーリオで、どこぞの場を荒らすだけ荒らしてあとは放り投げる姉とは本当に違うよく出来た人だと思わされた。姉はなんかもう、その口を縫いつけて転がしておきたい。――なんて思えるのも姉のお陰で元気になったからなんだろうけれど。
リーリオがアルキメンデスを部屋から連れ出し、研究所内の案内をしている間、ようやく一息つくことができた。なんというかとにかく、もどかしい。
気にしなければいいんだろうし、いっそ全部話したほうが自分は気が楽になるのだろうけど、アルは、どうなんだろう、ひどく混乱してしまうんじゃないのか、だって突然捕まえられた人にわたしは貴方の妻ですなんて言われても。

「……、……焦りすぎ、ね、……落ち着こう……」

随分と長い時間経った気分でいるが、まだ彼と再会してから1日だって経ってない。
急いては事を仕損じる、だ。落ち着かないと。わたしが、しっかりしないといけない。わたしが。
リーリオが与えてくれたこの時間で、せめてどうするか方針だけでも立てよう、そう思ってソファに腰掛けたら、どっと眠気が襲ってきた。そういえば昨日、あんなに森の中を走り回って成人男性を引きずって歩いたのに、ベッドで寝ていない、――……


「……まあ、つまり全般的に海のことやってるところだ、と言うことですねえ、何かご質問あれば、答えられる範囲で答えますよ」

連れ出す際に、難しい本読むと寝ちゃうひとだから、とユーエに耳打ちされたとおりに、やっている研究の話はできるかぎり噛み砕いて説明して、へえすごいな、とかそういう反応が返ってくる程度だった。そういうひとは、よくいるから慣れている。
恐らく目の前の彼は、リーリオたちがやっていることだとか、この建物のスペックがどうだとか、そんなことはどうでもよくて、

「……ああえっと、もちろんですけど、アルムやユーエさんについてでも。尤も私は、ユーエさんのことは、こちらに来てからの2年間しか、分からないのですけどね。あとはアルムから聞いたことしか、話せませんで」

そう言って表情を伺えば案の定で、先ほどまでの興味なさそうな顔はどこへやら、と言ったところだ。
あとは、こちらからどこまで話すかを慎重に選ばなければならない。彼女の口から知らされるべき事象は、彼女が話すべきなのだから。

「……そう、だな、ユーエは、ここで何をしているんだ?」
「主に採集と外部調査、ですね、彼女は私らみたいな完全なインドア研究者どもと違って、外を歩ける知識と体力を持ってますからね。元ハンターなのが、十二分に生かされてますよ」

無難なところから攻めてきたな、と思いながら、無難な説明を返し、リーリオはアルキメンデスの表情を伺う。海の深みのような青い瞳がゆらゆらと揺れているのは、なにか引っかかることでもあるのだろうか。

「……ユーエがここに来る前、のことは、どれだけ話せるんだ?」
「アルムから教えてもらった限りで、私が覚えていることなら全てお話できますよ、……そうですねえ、」

アルムがよく妹の話をすると言っても、アルムとてユーエとは随分と長い間、離れて暮らしていた人間だ。そのアルムから話を聞いたリーリオが話せることは、せいぜい、アルムがユーエをこちらに連れてきてからの2年間しかない。
とりあえず生まれはこの国ではないことと、諸般の事情があって二人は別れて暮らしていたこと、そして本の導きで再会が叶ったこと、を並べてみる。嘘は言っていない。
そうやってからまた様子を伺えば、何か迷っている様子が見える。ちょっとつついても良いかもしれないが、咲良乃研のコアタイムがそろそろ終わる。アルムがいないので飾りのようなものだが。

「……っとお、アルキメンデスさん。そろそろユーエさん、帰る時間になりますから、戻りましょう。私に何か聞きたいことがあれば、暇さえしていればいつでもお話できますので」
「ああ、ありがとう、リーリオさん。名前、呼びにくかったら略してもらっても」
「私人を愛称で呼ぶのあまり好きじゃないんですよ、……ああ、アルムのオフィスは、階段降りてすぐ右、ですよ」

そうやって促してやれば、短くありがとう、と呟いて、すぐに階段を駆け下りていく。
何となく、そういう何かがあって、ユーエに意識を向けさせているんだろう。無意識のうちに、何かする必要のあることを抱えている、そんなそれだ。

「……さてパライバ、見たかな」
「見た見た」

肩の高さまで上げた左腕の上、唐突にそれは顕現した。白い身体に毒々しい色の触手を備えた奇妙な生き物。
リーリオの腕の上にちょこんと乗れば、するりと肩まで滑るように移動する。どこを見ているのか把握しづらい瞳がぱちぱち瞬かれて、風もないのに薄緑と青と緑と、それから紫のまだらのたてがみがゆらゆら揺れた。

「リーリオに喚ばれたの超久しぶりだから何事かと思ったよ」
「状況としては見てのとおりで、私が喚んだのはひとえにアルムが今いないから、だねえ。喚べるうちのひとりでよかったとは思うけれど」

謎の生き物パライバトルマリンは、本の世界のあとアルムに回収され、咲良乃研究室のペット枠に完璧に収まっていた。
彼に関連する論文が発見され、本来の使い方やその能力が明らかになったものの、代替や上位互換の技術は当に世の中に出回っている。パライバはほぼ完全に過去の遺物だった。ヴィアベル研究所の中でも、パライバの正しい使い方を理解している人間はごく一部だ。
アルムとユーエ、そしてリーリオも、その一人。

「本の中で、出会った彼かい」
「間違いないねー、なんとなくだけど。相変わらずクソムカつく顔してやがんな」
「……ああ、嫌いなんだっけ、彼?」
「嫌いじゃないけど、ムカつく」

白い尾が揺れて、リーリオの背中を叩く。

「何がムカつくってさ、記憶喪失になってユーエにクソつらい思いさせてるだろうことがムカつく」
「……ああ、はいはい、ユーエはかわいそうだ、それを少しでも解消してやるために、君の力を貸してほしいね、パライバ」
「わーってらあ」

ちょんちょん、とパライバの頬を小突けば、彼の姿は霧散して消えていく。
あとはユーエの様子を見ながら、どう手を打つかを考えるだけだ。アルムの言葉が思い出される。

『ユーエはね、全部自分でなんとかしようとしちゃうから、どこかで荷物持ってやるなり休憩挟ませるなりしないと、いけないのよ、あの子は強いから、全部背負って歩いちゃう、その分崩れた時に立ち直りづらいから、休める場所がない今は、私がとっ捕まえてでも転ばせてでも、するしかないのよ』

だからごめんなさいリーリオ、私はあなたをすごい適当に扱うわ、と宣言された2年前を思い出す。その頃からユーエとは面識があるけど、今の彼女と比べれば本当に、すてきなお姉さんでよかったね、と思う。リーリオにも妹はいるが、あそこまで献身的にはきっとなれないし、フレサだって受け入れない気がするのだ。よくできた姉妹だと思う。
ユーエの休める場所は、戻りこそした。ただまだ休業中だ。

「どう出てくるもんですかねえ」

少なくとも、アルムが戻ってくるまでは、見ていてやらなければならない。嫌ではないが少々複雑な気分だ、例えるならご機嫌取りをしているような。

「(アルム、いい加減にシスコン治してくれないかなあ)」

切実な思いは、きっとアルムには届かない。


リーリオから解放されて、何故か急いでユーエのもとに戻らなければならない気がした。青色が軽快に階段を駆け下りて、すぐ右の咲良乃研究室、

「悪い、遅くなった、……」

気が急いたあまり、ドアを勢い良く開けたのを後悔する。小さなソファに丸まって、ユーエはぐっすりと眠っていた。昨晩彼女のベッドを占領していたのは自分だし、そのせいかと思うと途端に申し訳なくなる。
そうやって小さく丸まって眠る姿にはどこか既視感が付きまとい、頭にかかる靄の中に飛び込んでいく。小動物のような目の前の彼女に何かをかきたてられるのだけど、その何かが分からない。

頭、くらいは、撫でても。

かきたてられた何かのままに、そっと手を伸ばす。薄緑の髪の毛に指を通せば、絡むことも引っかかることもなく、さらさらと流れていく。
この感覚は、なんだろう。

「……、……ユーエ」

自然と口から彼女の名前が漏れて、2人だけの部屋にぽとりと落ちる。
ああ、でも、彼女を愛でている場合じゃなくて、早く、早く迎えに行かないと、

「……ある、……いかないで、……いかないで……」
「!!」

寝ているはずの彼女が零した声に、漣のように広がるのは罪悪感だった。この感覚は、初めてではない。何度も、何度も経験した。迎えに行かなければならない誰かに何度も。
やはり彼女は、きっと以前に自分と出会ったことがあるはずだ。話して欲しい。知りたい。間違いなく自分の記憶の手がかりが目の前にある。

「……俺は、ここにいるよ、ユーエ。大丈夫だ」

そう言ってぽんぽん頭を撫でてやれば、眠る彼女の表情が緩やかに穏やかになって、自分の中にさざめいた罪悪感もゆっくりと薄らいでいく。

「ユーエ、……ユーエ」
「……、……んあ、……、……うええ」

名前を呼んで、肩に触れて揺り動かすことを躊躇いつつもそうすれば(――なんで躊躇ったんだろう)、眠そうな目を擦りながらユーエは目覚める。時計を見て跳ね起きた。

「ごめんなさい、わたし、」
「ああ、さっき戻ってきたばかりだから大丈夫だよ。昨日ろくに寝てないんだろ?」
「……、たぶんそうだと、今日はわたしお姉ちゃんの部屋で寝るので、平気です、えっと、……帰り、ましょう、帰って、晩御飯、作りますから」

リーリオに随分と長く拘束された気がするのはこのせいだろうか、そんなことを思いながら、わたわたと帰る準備をするユーエを眺める。
彼女の首にかかっているチェーンネックレスの先で、何かが強くきらめいた気がして、目を細めた。

「……うん……?」
「……? どうか、しましたか」

服の下に隠されたその先のものが、とても重要な気がしたけれど、覗き見ることは流石にできない。

「ああいや、何でもない。それより、何作ってくれるんだ?晩御飯」
「……、うーと、……ひき肉があったと思ったので、ハンバーグ、かな」

ユーエは、ハンバーグは自信があるんです、と微笑んだ。自然とこちらも笑顔になって、晩御飯への期待が否応なしに高まる。
――あいつは、そういや料理が全然できなくて、いつも俺が作っていたんだっけ?


「楽しみだな。好きなんだ」
「そう、ですか」

その、作り方を教えてくれたの、貴方なんだけどな。
そんな意味も込めて緩やかに笑顔を作ったら、顔を覗きこまれて心配されてしまった。心配したいのはこっちで、早くあなたに記憶を取り戻してほしくて、なのに。
でもまだきっと時間はあるから、大丈夫、きっと大丈夫。どうしても気が急いて、帰り道の足取りが早くなる。

「頑張ってつくりますね」

挽き肉に愛を包んで焼いて出したら、貴方は気づいてくれないだろうか。