無意識に根付く -3

ユーエが作った朝ご飯はどこか懐かしい味で、久しぶりに得られた安息の味だった。
長らく戦いの場に身を置いていた(……ただし何と戦っていたのかは思い出せない)せいか、こうやって平和に朝ご飯なんて食べるのは本当に久しぶりだった。

「料理、上手なんだな」
「……できるようになったのは、最近です」

姉に教えてもらって。そしてあなたに教えてもらって。何度も何度も失敗して包丁で指を切ったり塩と砂糖を間違えたりしたのを、あなたは間近で見ているはず。
そう言いたいのを、ユーエはスープと一緒に飲み込んだ。このスープだって教わったとおりそのままで作った。
どのタイミングで自分の知りうることを話せばいいんだろうか、それはとても重要なことな気がした。もう少しこちらの世界に慣れてもらってからでも遅くはないと思うが、もし彼がまた、2年前のように消えてしまうとしたら、早いほうがいいのは目に見えていた。
今焦っても、しょうがないのかもしれない。

「……あ、で、えっと、わたし仕事があるから、……えっと、……その、」

ひとりにしておけないので一緒に来てくれませんか、すら、言えない。2年前だったら難なく言えただろう言葉なのに、どうしてか言葉に詰まる。
本の世界で拾われた時には、放っておけないのはむしろ自分だった。見知らぬ世界に放り込まれて、ひとり寒さに震えていた自分を保護してくれた彼を、こうして捕まえることになるとは誰が予測しただろう。あの時彼はずっと一緒にいてくれたが、自分はそうする訳にはいかない。仕事がある。

「……ああ、じゃあ、俺は、」
「い、一緒に、来てください。アルのこと、……あなたのこと、一人にしておけない、ので」

視線が合うだけで、出会ってすぐの頃のように鼓動が跳ねる。挙句今の自分は、初対面のはずの人間に向かって何を言っているんだなんて思われているのではないのか、顔は赤くなっていないだろうか。
そんな心配をよそに、アルキメンデスは案外あっさりと口を開く。

「ん、じゃあ、そうするよ、……何でかは分からないんだが、君がどこで働いているのか、気になるんだ」
「……ユーエ、です、……ユーエ、って、呼んでください」
「ああ、ごめん。ユーエ」

名前を呼んで貰えるだけで、ほんの少し安心する。これからやらなきゃいけないことはきっとたくさんあるのだろうけど、それも頑張ろうという気になれる。
自分は本当に単純だなと思う。彼を取り戻すためなら、きっとなんだってできる。

「えっと、……片付けたら、すぐ、行きますから、準備、しててください」

実はもう、あってないようなコアタイムに遅刻しているのは、黙っておいた。


ヴィアベル研究所は、海に面した立地を活かして海洋系の研究が盛んに行われている研究所だ。
若き教授咲良乃アルムは海洋生物を用いた発生学を。他にも、生態学や生殖学など、扱っている分野は多岐に渡る。新造のこの研究所は、何より人員が若いメンバーで構成されていることが特徴の一つであった。27歳のアルムでも、研究室を持っている人としては最年少ではないのだ。

「こっち、です」

慣れた手つきでカードキーをかざせば、研究所のドアが開く。
きれいな廊下を二人分の足音が通りぬけ、ユーエは階段の手前の部屋のドアをそっと開けた。咲良乃研究室、とプレートのかかるドアの向こう、そんなに広くない部屋ではあるが、椅子がいくつか置いてある。二人なら十分だ。

「……ここは?」
「お姉ちゃんの仕事場です、……わたしも一応、この部屋を使っていいことになってるから、わたしの部屋でもあります」

小さなソファにアルキメンデスを座らせて、使ったカードキーを首から下げる。何か暇つぶしになりそうなものはないかと本棚を見やって、座らせた人が活字が苦手なことを思い出した。難しい本を見ると眠くなる、と言っていたのに、この部屋には難しい本しか基本的にない。
これなら平気かな、と何冊か海の生き物の写真集を引っ張りだして、ソファの前のテーブルに置いた。

「……ちょっと、ここで、待っててもらえますか、やんなきゃいけないこと、してきます、から、……すぐ戻る、ので、」
「……ああ、わかったけど、……そんなに、俺のことが心配なのか……?」

ああ、なんか、本当に昔の自分を見ているようだ。似たような言葉を吐いた記憶がある。
心配、というより、その無償の愛のような何かがとにかく怖くて、必死で突き放そうとした記憶がある。彼と自分を一緒にしてはいけないのだろうけど(状況も違いすぎるし)、まるで自分がしてきたことがすべて跳ね返ってきているような、そんな錯覚を覚えた。

「……それは、まあ、……あっやばい時間」

それじゃごめんなさい待っててください、とぴしゃりとドアを閉めて、ユーエは階段を駆け上がっていった。


階段を駆け上がる音が聞こえる。結構急いでいるのだろう、ちょっと引き止める形になって悪い気がしてきた。

「……、……何なんだろうな……」

彼女は、さながら自分に強く執着しているように、見えなくもない。
それが悪いとかいう話ではなく、ただどうして自分に執着しているんだろう、というところが気になって仕方がない。初対面のはずなのに。初対面のはずの自分にとてもよくしてくれて、それに少し不安を覚えることもある。
悪いひとではないのだろう、というのは分かるのだけど。
それ以外にも、引っかかることはたくさんあった。時折見せる悲しそうでつらそうな表情だとか。今朝はほんのり頬が赤らんでいたし、スープの味はどこかで飲んだことがある味だった。何より彼女は、自分が普段どう呼ばれていたかを伝える前に、自分のことを『アル』と呼んできた。

「(――ユーエは、俺のことを知っているのか?)」

だとしたら何故、それを伝えてくれないのだろう。何か伝えられない理由でもあるのだろうか。
彼女が知っていることを伝えることで、少しでも楽になってくれるのならその方が、自分としてもいいのだけど。つらそうな顔をされると、無性に頭を撫でてやりたくなるのだ、そのうち本当に手が出そうで、会ってそんなに日が経っていない相手を撫でていいものかどうか、
――なぜそう思うんだろう?

「(……ああ、くそ、頭が、)」

頭の中に靄がかかって、ぼんやりとした外殻しか思い出せない大切なひと、早く迎えに行かないと、今頃きっと寂しがって泣いている。早く思い出してどうにかしなければならない、――こちらから何かしら手を打ってもいいかもしれない。
もしユーエがどこかで自分と会ったことがあるなら、なにか手がかりがつかめてもいいはずだ。


研究所内を駆けずり回り、必要があれば事情を説明し(出来る限り端折って)、自分の抱えているタスクを他の人にお願いする作業は、思っていたよりスムーズに終わりそうだった。原因はどう考えても姉なのだが、この研究所内でとっくにユーエが結婚していることを知っている人がやたらといたせいだ。絶対にあの姉が相当早い段階で話している。
指輪は、一度なくしかけて以来、チェーンに通して首からかけているので、左手を見て悟られたことはほとんどないはずなのだ。なくしかけたのは研究所勤めを本格的に始める前だからなおのことだ。――そういえば彼は、指輪はどうしたのだろう。見た限りでは見当たらなかった、けれど。
そんなことを考えながら最後の目的地の部屋に到着して、そっとドアをノックする。

「……すいませんユーエです、リーリオさんいますか」
「はーいリーリオいますよー、いいですよ入ってきてください」

姉がいない今、この研究所で一番頼れるのはこの人だ。
床屋に行けばいいのに、邪魔だという前髪をヘアバンドで上げているから、なおのことあの薬屋の青年に見える。前髪、切って欲しい。向けられる瞳の色が、紫でよかったと、本当に思う。
後ろ手でドアを閉めて、大きく息を吐きだした。

「どうかしました?」
「……えっと、リーリオさん、は、……お姉ちゃんからわたしの色恋沙汰についてはどのへんまで聞いていますか」
「結婚してるのと、……ああ、相手の外見と名前も聞いたことあったかな……青い髪の、勇者さんだっけ?結構詳しく聞いてますよ、アルムがよく、話してくれた」

あの姉やっぱり許されない。

「……、……お姉ちゃん殴ろう……、……えっと、そこまでわかってるんだったらすごい話は早くて、……、……その、」
「……その?」
「……今オフィスに、いるんです」

驚いた表情のリーリオに、ユーエは出来る限り手短に、こうなった経緯を説明する。彼に与えられた酷な運命から始めて、時折本の中の話を入れ込んで、そして昨晩、フレサ(とリーリオ)の頼みを聞いて向かった森で、出会ったのが彼で、間違いなくその彼は自分の大切な彼で間違いないのだけど、名前以外のほとんど何もかもを忘れていたことまで。
アルムからしこたま、彼の話を聞かされていただろうリーリオの理解は実に早く(そうじゃなくても彼はよくできた頭のいい人だから)、よく頑張ったね、お疲れ様、と、労いの言葉が彼からかけられた。

「……で、その、わたしはフレサちゃんのお願いを、聞きました。それでなんとかなりまし、……なりましたよね?」
「ああ、うん、フレサが今度、ケーキを焼くって言ってたね、ユーエさんへのお礼に、だそうで」
「やった。……、……えっと、だから、今度はリーリオさん、わたしのこと、助けてもらえませんか、……お姉ちゃんが帰ってくるまでで、いいんで」

そういえば姉がいつ帰ってくるのか聞いていない気がした。まあ1週間かそれくらいは帰ってこないだろう、その間何もかもをひとりでこなせるか、とてもじゃないが自信がなかった。ようやく姉の助けなしで立って歩けるようになった人間に、突然降って沸いた強烈な環境の変化は、つらいものがある。

「……ん、ああ、それくらいならお安いご用、ですよ。私がいない時に妹に何かあったら助けてあげて、って言われてますしね」

姉は抜かりがなかった。そしてリーリオも、そう頼まれればすぐに何が求められているのかを理解できるひとだった。
アルキメンデスの身長と体格をユーエから聞き出して、ユーエが抱えていたタスクを他の人に任せたことを確認すれば、すぐにユーエの肩をそっと叩いて、言う。

「これもアルムの受け売りですけど、……ユーエさん、あなたが、しっかりしないと、ですよ」
「……出来る限り、頑張ります」
「折れそうになったら、いつでも。フレサでも私でも、いいですから。フレサもちょうど学校が休みに入ったから、そのうちまた前みたいに、ここに来ると思いますから、……ね?無理は、しちゃダメですよ」

ユーエが肩を叩かれても、以前のようにびくつくことはほとんどなくなっていた。そっと背中を押されてオフィスに戻ることを促されて、ドアを開けつつユーエは頭を下げた。本当に頭を下げるしかない。ドアを閉めることもすっかり忘れていた。
ばたばたと慌ただしく階段を駆け下りていく音が部屋の中に響く中、リーリオはひとつ息を吐き出す。

「……記憶喪失、ねえ、……辛かろう、ユーエさん」

彼女の妹がどれだけ、その「彼」を好いているか、みたいな話は、1年以上前に聞いた話だ。
デートの約束をすっぽかしたりドタキャンしたりするたびに、アルムは決まって妹の話をしてきた。作り話か夢物語のようなその話をいつだって真剣に話すから、嘘をついているわけではないんだろうと思いながら今日まで過ごしてきたけれど。本当のことだったとは。さすがに面食らう。
自分の大切な人がこれでもかと大切にしているものを、丁重に扱わない理由はない。やれるだけのことは、やろう。

「――コールパライバトルマリン、リーリオ・エルキャンベルの名において命ずる、『――』」



研究所内をほぼぐるっとひと回りして、ユーエが姉のオフィスに戻ってきたのは昼過ぎだった。
これでも想定よりは大分早く、いろいろなことが片付いた。慌ただしくオフィスのドアを開ければ、アルキメンデスはソファで寝こけている。写真集と一緒にテーブルの上に置いてあった分厚い本にでも目を通したのだろうか。

「……、ああ、」

よかった。ちゃんと、ここにいてくれた。それだけでとにかく安心する。
寝こけている近くによってそっとしゃがみ込めば、微かな寝息が聞こえてきた。目の前で彼が生きている。確かに目の前にいる。それだけで、もう、泣きそうになる。すがって、泣きたい。
手を伸ばしてそっと頭を撫でたい。撫でているうちに起きないだろうか、そうしたら驚かれるに決まっている。驚かせるようなことはしたくない、けれど、つい、つい手が伸びていた。
2年ぶりに触れる髪の感触が、手のひらに刺さる。変わってない。変わっていなくて、泣きそうになる。
全部話してしまえばいいのかもしれないけど、彼はそれを受け入れてくれるのだろうか?自分と比較するのはとても申し訳ない気がするんだけど、もし自分が同じ立場だったら、頭がおかしくなってしまいそうな気がする。だから怖くて踏み切れない。つらい。
彼の頭を撫でる手が止まって、泣きそうになるのをこらえるように、視線を上に飛ばしたところで、


「……、……ユー、エ……?」

背筋が凍りついた。

「ひっ!?あっ、あ、ごめ、ごめんなさい!!」

声がして視線を戻せば、澄んだ青い瞳が目の前にある。これだけ近い距離で、意図せずとはいえ見つめ合うのはもちろん久しぶりのことで、もう死ぬほどびっくりして高鳴る鼓動が収まらない。

「……ああ、いや、……えっと、……気にしてないから、大丈夫だ。こっちこそ、驚かせて悪い」
「ごめんなさいほんとにごめんなさい、その、つい」

なんでこんな、まるで付き合いたてのカップルみたいなことをしているんだ、と思わなくはなかった。
それよりも、その綺麗な青色に、僅かな間とは言え相対して呼吸すら忘れた、そのことの方が、頭の中を駆け巡る。
深く溺れた海の色。自分を捉えて離さない色。


「ごめん、なさい、驚かせてしまったでしょう、ごめんなさい」

何度も何度も謝られるのも、初めてではない気がした。
それよりも、目を覚ましたら目の前にあった、深い藍色の瞳が、心の奥底をつついて揺り動かしているようで、どうにも落ち着かない。

「いや、……むしろ、何だか落ち着いたよ、……流石に顔が近かったのは驚いたけどさ」

彼女から撫でてきたのであれば、こちらから手を出しても別に問題ないのかな、と思わなくはない。
それよりも、近くで見れば本当に綺麗な藍色の瞳が、まるでこちらを深くまで引きずり込んでくるようなこの感覚はなんだろう?
写真集で見た深海のような色。何故だか深く引きずり込まれそうな色。


「……も、もう少ししたら、帰ります、から」
「あ、ああ……」

互いに変に意識してしまって、狭い部屋にどうにも居づらかった。