無意識に根付く -2

ここ最近すっかり海辺ばかりを走っていたせいか、久しぶりの森は随分と手強く感じた。
腰まであった髪の毛を切ったとはいえ、まだ十分に長い髪の毛が鬱陶しい。ハンター時代に愛用していたヘアバンドは、うっかり机の上に置いてきてしまった。せめてそれがあれば違ったのかもしれない。
それでも、ハンターとして鍛え、そして今も、調査や採集で重用している観察眼は鈍らない。

「……、……外部要因……?」

斬り払われて胸部と腹部を分かたれた巨大な虫の死骸。
木についた爪痕か何かのような、真っ直ぐな新しい傷がひとつ。
――そして、人間の靴の、足跡。

「(……ヒトだ)」

自分の足と比べれば数センチ大きく、高い確率で男性だろう、ここでこの虫に襲われて斬り捨てて、そのまま向こうへ歩いてか、走ってかして去っていったのは。
真っ直ぐな傷はきっと何かの爪ではなく、武器によるものだろう。たとえば剣とか。
誰かがこの森に迷い込んで、それで騒がれていることになる。ただ疑問なのは、迷いこむような位置にこの森がない、ということだった。街道に面しているわけでもなく、通らなければいけない場所があるわけでもなく(――個人の家だとかそういうレベルのものは除いて)、何より特別な何かがあるとかで、人が立ち入るようなところではない。

「(どうしてだろう)」

普段立ち入らないものが立ち入ってくれば、大騒ぎするだろうことは容易に想像ができた。原因は間違いなく、この誰かだ。誰かを捕まえるなりすればそれで終わる。リーリオとフレサの平穏は守られる。リーリオには特に、姉が世話になっているし、この頼みを無下にはできない。
何よりも、フレサの言葉が引っかかって、

『青い光が一瞬見えたと思ったら、それからひどく騒がしくて』

思い違いであることを祈りながら、――むしろ思ったとおりであって欲しいと祈りながら、ユーエは軽快に森を進んでいく。出来る限り騒がしい方へ、と歩いた先々で、同じ足跡を何度も見つけた。そのうち足跡を追うようになって、随分と胸が高鳴る。
この先にあるのは、何だろう?
仮に自分の予想が当たっているとして、きっと死んではいないだろうけど、怪我でもしていたらそれはそれで嫌だ、誰にも傷をつけてほしくはない。あまりそればかり考えても、そうじゃなかった時の落胆具合がひどいんだろうとは思うが、考えずにはいられない要因が揃ってきていたのだ。
本の中で、躍起になって読み漁った時空に関する文献の中に、世界間移動の際に、行き先の世界で強烈な閃光を発する事例も確認されている、なんて記述を数回見かけたのは確かに覚えている。あの時はただ面白いなあで流していたけれど、今は早く確かめたくて、仕方がなくて、自然と早足になっていた。
あの時眠気と投げ出したい気持ちに負けないで読み漁ってよかった!と思えるのか否か、それを早くわたしに確かめさせろ!と、ひどく焦らされる。こういうときに焦るとろくな事にならないと思いとどまれたのは、ハンター時代の経験が生きた。

そう思いながら足を進めていると、狼の吠え声がした。
それに、人の叫び声が続いた。――待ち望んでいた、あの。声。

「!!」

そこにはもう、急加速する衝動を止めるものはなかった。枝を踏み折って、石ころを蹴飛ばして、声のもとに突き進むだけだ。
早く、何よりも早く辿り着いて、答えを確かめなければならない。そこに、いるのは、きっと間違いなく、――
視界が少し開けて、張り詰めた空気が肌に届いた。狼が唸り声をあげている、その向こう、月明かりの下、

確かに、青色が、見える。

叫びたい衝動をなんとか抑え伏せて、状況をそっと伺った。
血の匂いはしない。睨み合いを続けているのだろう、互いに隙を探り合って。できることなら手を出される前に、どうにかしたい、――する。

「……ごめんなさい、……ごめんなさい!!」

狼たちの耳が動いて、何個体かの注意はこちらに向いたのが見えた。地面を蹴る靴の音がする。
それ以上の情報を得る前に固く目を瞑って、持っていたものを勢い良く投げつけた。そして耳を塞いだ。
投げたものが地面に落ちた瞬間に、爆ぜる。広がる強烈な閃光と、耳をつんざく高音。

年単位で使ってなかったものだから、ちゃんと爆ぜるのかが心配だったそれは、ハンター時代に作ってもらって結局余して、誰かにあげればよかったのにそれすらも忘れていた閃光玉と音爆弾だ。人に投げるなよとか言われた気がするけど、今できる最前手は、きっとこれしかなかった。
光と音に怯み、眼と耳を一時的に潰されて混乱を極める狼たちを尻目に、耳を押さえて蹲る人間の手を、強く、掴む。
もう離さない。

「走ります、ついてきて」

お前は一体、とか、そんな呻く声が聞こえた気がしたが、無視した。
彼らが鼻を利かせはじめるより先に、できることなら森の外まで出たい。せめて少しでも離れたい。
とにかく只管に、走った。森を抜けるまで振り向かずに、強く手を掴んだまま。


休みなしで相当な距離を走り抜けた結果、強引に引っ張ってきた青色は、森を抜けたところでばたりと倒れてしまった。
少しは後ろを見ればよかったのかもしれない。けれど、振り返っていたら、走り抜けられる自信は、なかった。
成人男性を半ば引きずるようにして担いで、さらに愛用していた戦斧も担いで、となればその重さは相当なもので、家に帰り着くまでに何度か心が折れそうになった。それでも何とか歩いてこれたのは、それが、確かに、彼だったからだ。

「……、……」

家に帰り着いて、とりあえず自分のベッドに彼を寝かせて、一呼吸置いた。
まだ、全く現実味が湧いてこない。そこに寝ているのは、確かにそうなのだ、という自信はあるのに。

「……アル……」

短い青い髪も、整った顔も、2年前に自分の前から消えていったそれで間違いはない。2年前は、毎日顔を突き合わせていたのだから、間違いようがなかった。……少し、その時より髪は伸びている気がする。
2年。2年「も」待った、なのか、2年「しか」待たなかった、なのか、どちらを取るべきか、ひどくどうでもよいようなことに思考が回されて、戦斧を担いだままなのすら、しばらく忘れていた。そして桜色の戦斧を下ろせば、がちゃりと大きな音を立ててしまって、動揺しきっているのがよくわかった。どうしたらいいんだ。
こういう時に姉ならなんて言うか、――あんたがしっかりしなきゃダメなんだよ!って言うに、決まってる。だからわたしがしっかりしなきゃいけない。次に、彼にやってあげなければならないことは、何だ。……そういえばアルムは、帰りは遅くなるよと言っていたけれど、と思い返して時計を探せば、当に日付は回っていた。この分だときっと帰ってこない、というのが、経験上。今帰ってこられても割と困る気はしたけど。

「……アル、」

手を伸ばして撫でることは、許されるのだろうか?2年前だったら何の躊躇いもなくやれていたことが躊躇われて、思わず伸ばした手は虚空を彷徨って、空気を掴むだけに終わった。
どうしてだろう。あんなに頼れたはずの、頼りきっていたはずの目の前の彼は、今はどうしようもなく儚く、簡単に壊れてしまいそうな存在に見える。触れることすら躊躇うようなそんなレベルで、目覚めを待つ心が不安一色で塗りたくられる。
そうしてベッドの横でどうしたものか逡巡しているうちに、気づけば眠りこけていた。




――夢を、見た。
自分の手を引く小さな手は、とても懐かしく、そして護らなければならない手だ。

『アル』

名前を呼んでくる声がする。視界に妙に靄がかかって、その顔は全く見えない。ただ、小さな手が、そっとこちらの手を包み込んでくる。いつか指輪に誓った護るべき手が確かにそこにある。
けど、どうして、顔が見えないんだろう?

『アル、』

迫ってくる。真っ暗な闇が迫ってくる。小さな手は、こちらの手を、離さない。
迫ってくる、迫ってくる、全てを塗りつぶすような闇がこちらに迫ってきて


「――ッ!!」

見開いた目に飛び込んできたのは、見知らぬ部屋の天井だった。
森の中にいたと思ったのに、と、痛む身体を起こせば、部屋の主がどうやら女性であることが、何となくではあるが悟れた。ふんわりした明るい色使いでまとめられた部屋の隅に、大きな戦斧が鎮座しているのには面食らったが。

「……ここ、は、」

思考が追いつかない。頭も痛むし身体も痛い。
そういえば自分の剣と盾はどうしてしまったのか、それすらも記憶が怪しい。彼がゆらゆらと思考を巡らせて、思い出そうと努めていると、部屋のドアが勢い良く開け放たれた。
その向こうの藍色の瞳が、まっすぐに、ベッドの上の青い双眸を捉える。安堵の表情と、困惑した視線が交錯した。

「……、……よかった、起きてた、……」

薄緑の長い髪を揺らして、ユーエは足早にベッドの傍に歩み寄る。

「よかった、――起きなかったら、どうしようかと、思ってた。ああ、……」

言葉が続かない。何を言えばいいのか分からない。できることなら今すぐ、その胸に飛び込んで抱きしめてもらいたい。けれど、今の彼には、それを許さないような雰囲気が確かにあった。
それこそ壊れ物を扱うように、慎重に言葉を紡ごうとして口を開いたユーエを制したのは、ベッドの上の彼がぽつりと零した言葉だった。


「……、……君は、一体、誰なんだ」


息が詰まる。
感じていた違和感がじわりじわり形になって、そこに形成されていく。ユーエが紡ごうと思っていた言葉はすべて粉々に破砕されて、ただ口から息を吐き出すのがやっとだった。

「……、……わたし、は、」

何て言えばいいのだろう。貴方の大切なひとです?貴方の迎えを待っていた妻です?どれも適切な解答とは思えない。
とにかく今自分が一番しっかりしなくてはいけないんだ、と、今にも泣き出しそうな心を何とか奮わせる。

「……わたしは、咲良乃ユーエ。この近くにあるヴィアベル研究所で、働いてます。……ここは、わたしとお姉ちゃんが一緒に住んでいる、家」
「……そう、だったのか、……俺は、どうしてここに?」

話し方も問いかけてくる声もこちらを見つめてくる瞳もすべて何もかもが2年前と相同なのに、決定的な何かが欠落している。それが、とてつもなく悲しい。
この人は、――勇者アルキメンデスは、咲良乃ユーエのことを覚えていない。

「昨日、……森からわたしが、助けてきました。狼の群れに、襲われていたの」
「……ああ、……」
「……森にいたのは、覚えているのね?」

肯定の意味の頷きがすぐに返されて、記憶能力自体に問題を抱えているわけではないだろうことを察して、少しばかり安心する。彼は一体どこまでを覚えていて、どこからを忘れているんだろう。それを確かめなければと焦る気持ちは抑えて、出来る限り不安にさせないようにひとつずつ。

「……名前を、聞いても?」
「ああ、俺はアルキメンデスだ」
「……下の、名前も」
「……アルキメンデス・カポディストリアスだ。長いから普段は名乗らない」

名前は覚えているようだった。すっきりした名前の方が良かったな、なんて言われたこともあったのを思い出す。かっこよくて素敵な名前ね、って言ったのも、覚えている。
次に何を問いかけよう、――どこから来たか聞いてみようか、と思ってアルキメンデスの顔を見やると、彼はどこか浮かない顔をしていた。

「……どうか、されましたか」
「いや、……俺に聞きたいことがあるんだろうけど、聞かれても、答えられない、」

伏せられた青い目。

「……何も、思い出せないんだ」

自分のことだけ忘れられていたらどうしよう、というのは杞憂に終わったけれど、それ以上に重い現実がのしかかってくる。――本の中でのことはもちろん、その後も、その前も、何もかもみんな、分からない、とでも言うのか、――運命は本当に、残酷なことをする。
ただでさえ過酷な運命を背負わされていたこの人に、神様はまだ試練を課すつもりなのか!

「……、……アル、……わたしで、よければですけど、記憶を取り戻すお手伝い、させてください。姉が学者をしているし、わたしも研究所勤めなので、力になれると思います」
「……いいのか?それは、助かる」
「わたしも昨日、貴方がいなかったら、少し危なかったんです。そのお礼も兼ねて、ということで、どうですか」

口からでまかせを吐いてでも、ユーエはアルキメンデスをこの場に繋ぎ止めておきたかった。もう手放したくない。離れたくない。何よりこの状態でどこかに行かれてしまうのは、とてつもなく怖い。狼ごときに後れを取るようなことは今でもないつもりだし、昨晩は流血沙汰にならないように強引に突破したのだけれど、その辺のことはあまり覚えていないのか、ユーエの申し出は彼に快く受け入れられた。姉の職権を盛大に乱用しているのは認める。
彼がどうしてここにやってきたのかはともかく、この状態をどうにかして打破しなければ、――そうすればもしまた、別の世界に消えていかれたとしても、きっと大丈夫だろうから。

「……あ、えっと、……食欲、ありますか、朝ごはん、作ってたんですけど、……」
「いいのか……? じゃあ、遠慮なく」
「はい。できたら、呼びますね」

ユーエはやんわりと微笑んで、そっと部屋のドアを閉めた。
姉から教わって作れるようになった朝ご飯は、もうほとんど完成しているのだけど、――ちょっと、一人にさせて欲しくて、


「……ッ、あ、……あぁ……!!」

間違いない。間違いなく彼が今ここにいる。本の世界で出会って振り回されて苦しめられて、そして愛して愛されて約束と指輪で縛ってどこかへ消えた彼が間違いなくここにいる。それは、本当に、嬉しい。もう死んでもいい。どうして彼が何もかもを忘れてこの世界にやってきたのかは知らないけれど、数刻前に本当に戸惑った表情で言われた言葉が耳に焼き付いて離れない。
――どうして、どうして!
再会を喜びたい気持ちは確かにあったが、忘れられていた事実を突きつけられた痛みは、鋭く、深い。

「……、……ッ……」

でも、良かった、一生会えなかったかもしれないのだから、それだけで十分なのかもしれない、そう気持ちを切り替えて、滲んだ涙を拭って、ユーエはキッチンに立った。
ああ、昔とてんで逆だなあ、と思いながら。


「……」

君は一体誰なんだ、と問いかけた時の表情が、なぜだか脳裏に焼き付いて離れなかった。
声と姿はどこか懐かしく、初めて会った気はしないのに、いつのことだか全く思い出せないし、名前すら分からない。

「……ユーエ……?」

呼び慣れた名前の気がした。何度も、何度も口に出した気がした。気がしているだけかもしれないし、そうでないかもしれない。その判別は、今のアルキメンデスにはできなかった。
何故だろう、彼女を見ていると、とても頭を撫でてやりたくなる。
――それもそうだけど、早く迎えに行かなければ、いけない。そのためにできるだけ早く、記憶を取り戻す必要がある。そうすればきっと、あの夢の靄の掛かった顔も思い出せる。誰を迎えに行かなければならないのかも、思い出せるだろう。自分を待っている寂しがりやのうさぎに会えるのはいつになるだろうか?

「……ユーエ」

無意識に呼んだ声は、ドアの向こうに届かずに消えていった。