無意識に根付く -1

――絶対に迎えに来るから、待っててくれ、

そう彼が言い残して消えてから、2年が経つ。
残された言葉と指輪とが彼女を縛った。逃げ場は当に失われていたのだ。

「お姉ちゃん、お手紙」
「ありがと」

本の世界から帰ってきた後、ユーエはハンターを辞めた。
命を削る必要も、死ににいく必要もなくなった。何より、生きていなければならなくなったからだ。引き止められこそしたが、辞めることに何の躊躇いもなかった。
姉と再会できたので、一人暮らしもやめた。ひとり、いやふたりでも広かった家は売り払い、姉の住む国へ、ほとんど身一つで引っ越した。姉のいる研究所に助手として雇ってもらえたので(姉の職権乱用かな?とも思ったが、一応ハンター時代の経験と知識が買われたらしい)、仕事にも困らなかった。生態調査や標本採集はとても楽しい。
何より、姉はとにかく優しくしてくれた。今までの空白を埋めるように。怒鳴られることも喧嘩をすることもあれど、アルムはユーエのことを何より考えてくれているのがようく分かって、ああ自分は生きていてもいいんだな、と、生きてなきゃダメだな、と、ユーエに思わせる要因の一つにはなった。
それでも、常に感じ続けていたぬくもりが消え去った代償は大きすぎて、ページを捲ることに躍起になっていた時のように、笑顔を作ることはとてもじゃないができなかった。貼り付けたように笑ったら、なにか諦めたように見える、と言われた。ついでに言うと、元の世界に戻ってきてからしばらくは、ユーエは一人で寝れすらしなかった。何も言わずに一緒に寝てくれた姉は菩薩かと思った。
ようやく、本当にようやく、本の世界で飲まされ続けた甘い毒が身体から抜け始めて、姉の助けを借りなくとも一人で立てるようになったのだ。アルムは自分の幸せすら放り投げてユーエに構うものだから(デートの約束をすっぽかして、昼寝で悪夢に魘された妹についていた、ということを自慢げに語っていたことを聞かされた時には流石に目眩がした)、本当に申し訳なかったと思う。
あとは、ただ、待つだけなのだ。勇者の吐いた言葉が真実なのか詭弁なのか、この目と耳で確かめる必要がある。判定に何年掛かるのだろう?

「調子はどう?」
「……わるくないよ。身体も、調査も」

ペーパーナイフで手紙の封を切りながら、アルムは妹を気遣う。1日に数度問いかけるけれど、ユーエは本当に分かりやすいので(隠しているつもりなんだろうけど)、少しの変化だろうと見逃さない自信がある。眠いとかお腹空いてるレベルでも。
最近は隠しても無駄だと察したのか、とても素直でよろしい。

「そう、……あ、お姉ちゃん昨日言ったと思うけど明日から学会でいないからね、家のことよろしくあと今日遅いから無理して起きてないこと」
「……無理してるんじゃないよ、寝れないから起きてるんだ……、わかった。だいじょうぶだよ、お姉ちゃん」

深い藍色の瞳が寂しげに揺れていた。

「お姉ちゃんがいないと寂しいか」
「うっさい」
「ああはいはい、……んじゃ気をつけて帰るんだよ」
「うん」

オフィスを出る妹の背中を眺めて、思わずため息が漏れる。
さんざ妹を愛でて甘やかして骨抜きにした青の勇者は、今どこで何をしているのか。妹を縛る約束は守られるのか。それだけが気掛かりで、自分に降ってくる幸せもいい加減に扱いがちになってしまう。

「そろそろシスコン名乗ってもいいかもしれないなあ」

既に、アルムのシスコンぶりもとい妹の愛でっぷりは、ラボで内では公認のようなものだった。まだ認めたつもりはないが。


海沿いにある研究所から歩いてそんなにかからない、高台の上に咲良乃姉妹の家はある。平屋の一軒家は、姉妹ふたりで暮らすのには十分だった。
ベッドを置いただけで手狭に感じるユーエの部屋も、部屋を寝る以外の用途ではほとんど使わないユーエには十分なくらいで、一人でいるのであればなおのことそうだった。休日は姉や研究所のひとたちにあちらこちらに連れ出されるようになったので、余計に。
姉が、帰ってきてから今まで、自分を極力ひとりにしないように行動してきたのが、今ならよくわかる。それくらいしないといけないくらい、自分が弱っていたのも、よくわかる。
特効薬であり依存性のある猛毒だった。自分の傷に毎日塗り込んで、そのうちそれ無しで立っていられなくなる。隣にいるうちはそれでもよかったけれど、何れこうなる事を分かっていながら、毒を抜かなかったのは愚かだったろうか?今更考えてもしょうがないのかもしれないし、未だに考えるのは副作用なのかもしれない。
少なくとも、おかげで普通に人付き合いをする程度であればなんとか耐えられる程度にはなったし、触られるのもさして怖くはなくなった。ちょっと臆病で人見知りを少しするくらい、という程度の認識をされるようになったのは、今、あの世界でできた友人たちに会えたのなら、きっと驚かれる。
――薬屋の青年は元気だろうか?金の髪の銃使いは元気だろうか?癒し手の狼の少女は、槍使いの狼の青年は、本の化身だという青年は、もう一人の自分より年下の青の勇者は、……ああ、ああ。

「……ん、うええ」

思い返せばきりがないほどに、考えないようにしていた本の世界のできごとがじわりじわりと思い出されて、そしてどうしようもなく恋しくなる。
棚の奥底にしまい込んでいる古びた本を引っ張り出せば、いつだって過去の彼らには逢えるのだ。白紙のページに物語を刻んだのは自分たちなのだから。

「……」

しかしそれは、散々摂取した甘い毒との再会も、意味する。
ひとりで立てなくなるのが恐ろしくて、もう随分と長い間、本は閉じられたままだ。
あの本を見返すことができてやっと、ユーエのあの世界での冒険は終わるのだろう。身に刻まれた甘い毒がそれを許せば。
浮ついた心を落ち着けて、もう寝てしまおう、と立ったその時、家のドアを叩く音がした。

「ユーエさん、ユーエさんいますか」
「……います。どうしたのね」

扉を叩いたのは聞き慣れた声だった。同じ研究所で働く、――姉の彼氏だ。
背格好と髪の色が自分の知る薬屋の青年に似ていて、同じ格好をさせたらたぶん自分は気づかないと思った人だ。正面から見れば目の色が違うから分かるのだけど。ひとを振り回すことに定評のある姉のことをよく好いて、そして理由があるとはいえ、約束をすっぽかされようがそれを許す心は、本当にすごいと思った人だ。

「ああ、よかった。ヴィアベル研究所のユーエさんとしてでなくて、ハンターのユーエさんとして、お願いがある方がいるそうで、案内を」
「……夜分遅くにありがとうございます。……、リーリオさんは、お姉ちゃんについていかないんですか、明日から」
「私?行っても良かったんだけど私の分野じゃないしねえ、……ユーエさん、とりあえず開けてもらっても?」
「ああ、あ、ごめんなさい、今開けます」

ドアの向こうには見慣れた男の人……同僚であり姉の彼氏のリーリオと、彼と同じ目の色の少女が立っている。
お願いがあるのはこっちの少女の方か、と理解するのに時間はいらなかった。

「……、……リーリオさんの、妹さん?」
「ん、そうだよ、前に写真で見せたことがあったっけか。フレサ、ご挨拶」

フレサです、兄がお世話になっております、などと言って頭を下げる少女の顔には、昔見慣れた不安が張り付いている。
ハンターに、組合を通さないで相談事を持ってくる時の顔。わざわざ依頼にするほどのことではないけど、いつか自分の身に危険が及びそうで怖いから、といったようなそんな顔だ。
そういう不安の顔を消していくために、ハンターをやっていた時期も確かにあった。リーリオがそれを知っているかどうかは知らないが、少なくとも悪い気はしない。深刻な案件でないだろうことも、察しはついた。

「……えっ、と、立ち話もなんなので、中に、どうぞ、……お茶とか何も出ないし、お姉ちゃん、まだラボだけど」
「ああ、うん、それは知ってるよ、アルムが君に頼んだらどうだいって言ってくれたんだ」
「……うええ」

フレサは実に良く出来た妹だった。リーリオがよくできた人間であることは、主に姉から聞いていたが、やはり血の繋がりは強いのだろうか、と思う。自分たちについては考えないことにした。
――彼ら曰く、昼間から突然、家のすぐ近くの森がひどく騒がしくなったそうだ。
それでフレサが怯えてしまっているのだけれど、リーリオもあまり妹に構っている暇がなくて、可能であれば原因を探ってくれないか、と。
もともとその森には狼の群れがいるのだが、彼らは実に知的な集団で、無闇にヒトに手を出すこともなく、慎ましやかに暮らしている、という。彼らによって森の秩序は保たれていると言っても過言ではない、そうだ。
にもかかわらず、今は数多の生き物の喧騒で満ちている、という。

『青い光が一瞬見えたと思ったら、それからひどく騒がしくて』

そうやって不安を語るフレサの言葉があまりに心に引っかかり、ユーエの不安を執拗に煽った。
何故だろうか。期待と不安とが入り混じったよくわからない感情に支配されて、一刻も早く動きたくて、とにかく苦しい。だから、二人が帰ってすぐに、久しぶりに戦斧を手に取った。
手入れは欠かさないでいてよかった、と思いながら、革鎧をつけて、すっかりしなくなった手袋を嵌めて、担ぐ戦斧は桜色の装飾。一線こそ退いたが、担げる筋力はまだ残っていてよかったと思う。振り回せるかは別だ。振り回す予定はない。

「――ユーエ、行きます」

誰に告げるでもなくひとり呟いて、そっと家を出る。
ほとんど丸くなった月がてらてらと輝き、雲ひとつない澄んだ星空の下を、薄緑が駆けていった。




――俺は、まだ、戦える!!

「……ッ、くそ!!」

飛びかかってきた巨大な虫を一太刀で切り伏せた青色は、荒い呼吸を整えつつ森の中を行く。
ここは一体どこなのだろうか。自分は一体なんのために歩いているのか。

――自分は、何を、探しているのか?

こんなところで足止めを食らっている場合ではなくて、早く迎えに行かなければいけない。そういう約束をしたから。待たせてしまっている。きっと寂しがっているから、抱きしめて頭を撫でて、安心させてやらなければならない。

――誰を、迎えに、行くんだ?

疑問の渦に思考が飲まれて、足が止まりそうになる。
全身が痛い。先の戦いの傷が癒え切っていないからだ、……何と、戦ったんだっけ?
足を進めれば進めるほどに、疑問と不安が胸の中に満ちてくる。一体自分は何をしていたんだろう?何のために戦ってきた?何のためにここまで来た?

「……、……ごめんな、今行くから、待ってろ、――」

続くはずの名前が、その口から紡がれることはなかった。
微かな呼吸音だけが漏れて、それも、足音にかき消された。