サネカズラがゆらめく -6【くちづける】

荒れに荒れた海が静まる頃には、外も暗くなって、深海に囚われた身体を動かすのも、十分可能なように思えた。
彼女が離してくれないのか、自分が離れたくないのか、最早分からない。ただ身体は鉛のように重く、抱きしめてきている腕も、厳重に縛り付けたかのように強く絡みついている。ような、気がしている。

「……ユーエ」

掠れた声しか出ない。
名前を呼ぶのがやっとで、それ以上のことをしようものなら、またひどく波が立つ気がした。

「……どう、したの、アル」
「無理、してないか……怖いのに、無理してないか、いいんだぞ、無理して、こうしてなくたって」

抱きしめる手は震えている気がしたのだ。それはまるで、出会ってすぐの頃の、あれは確か、そう、その時も、自分の弱いところが漏れ出てしまった時のようで。
他人に触れることがどう頑張ってもできなくて、同じ空間にいても怯えの目を向けられるような、美味しそうにご飯を食べてくれる姿はいつも見ていたけれど、頭を撫でることも無論許されないような、その頃に、似ている。

「む、り……してる、のは、どっち?」
「どっち、って……それはもちろんお前が、」
「アルは、ときどき、信用ならない」

言葉に詰まった。何も言い返せなくなる。
悔しいかな、口籠った結果図星だと認識されたのか、アルキメンデスの頭が小突くように撫でられた。

「……それは、どういう意味で言ってるんだ?」

やっと吐き出せた言葉も、逃げの一手でしかない。

「アルはつよい、とってもつよい……、それは、わたしも、前のわたしも、知ってることよ、……けど、けれど」

こっちを向いて、と声がする。言われたとおりに視線をやれば、すぐ目の前に深海の色が迫っている。
真っ直ぐに捉えてくる藍色から目が逸らせない。真っ直ぐな眼差しは、いつかどこかで何度も見たそれと、相同だった。

「アルは、くずれたら、とってもよわい」

弱いところをひとつ突かれたら、そこからいろんなものが溢れて止まらなくなって、そのまま壊れてしまう、そんな感じがして危ない、と。彼女は言う。
誰よりも的確に弱いところを突いてくるのは、目の前の彼女なのに。

「だからわたしがね、治してあげるのよ!」
「ユーエ……? ――!!」

やわらかなものが唇に触れてくる。それが彼女の唇だと気づくのに随分と時間がかかった気がしたのに、気づいてからもなお彼女は離れる気配がない。
長い間、触れる程度のキスをして、それからようやく唇を離したユーエは、ひどく穏やかな顔で微笑んだ。

「ゆー、え、おまえ、」
「怖くない、のは、うそ」

そう言って笑う姿には、見覚えがあった。
そう言って頑張ろうとする姿が愛しくて仕方ない時があった。

「けど、アルだから、だいじょうぶなの……だいじょうぶ、に、しなきゃ」

鼻先を突き合わせて、潤んだ深海色の瞳が揺れる。
そうして彼女は言うのだ、

「アル、……ごめんね、ありがとう、……だいすき、よ」

発された言葉が信じられなくなる。自分の耳は正常に機能しているのか、疑ってかかりたくて仕方がない。確かに彼女は言った、間違いなく言った、自分を見て、間違いなく唇を重ねてきた。
何かが彼女の中で、確かに変質していた。

「ユーエ、……ゆー、え……」
「……なんとなく、覚えてる……、いままでの、こと……」

自分があまり良くなかったことと、ずっとそばにいてくれたことしか、分からないと彼女は言う。でも、それしかしていない。彼女が防衛機制を取って閉じこもってしまってから、側にいることしかできなかったのだから。
閉じこもった先でなにもかもを一度どろどろにして、機が来て再び舞い戻ってくる様は、まさに蝶が蛹から羽化するそれに同じだ。
今度は翅を伸ばす番だ。また羽ばたいていけるように、ゆっくりと時間をかけて。伸び切らないうちに翅をねじ切ってしまうか、触れてしまって不格好な形にして、飛べなくしてしまっても、それこそ本当に自分無しで生きられなくしてしまえば、そう脳裏に過ぎりこそした。けれどそれは、真の意味で彼女が戻ってきたとは言えないだろう。
また待つことになる。まだ、待つことになる。それでも構わないから、

「……いい、んだ、俺は、……俺は」

もうきっと、抱きしめるのに加減はいらない。
その胸に縋るのも、躊躇うことはない。

「また、ユーエとキスできて、抱きしめて、もらえて、……それ、だけで、十分、……っだ、から……、今まで、……いままでの、こと、は……」

刺し殺した下衆たちの声がふっと脳裏を過ぎって、吐き気がした。彼女を追い詰めてその手にかけた下衆共がこちらを指差して笑っている。何の権利があってそんなことを、お前らになんの価値があって。悔しさに震える声を吐き出せば、強引に口を塞がれた。呆気に取られるのを割り入って、口腔に舌が滑り込んでくる。悔しさを掻き出すような、どこかに押しやるような、甘く蕩ける特効薬のような、毒のような。
過った何もかもが刹那の間にふわふわとした感覚で塗り潰されて、ユーエで何もかもが上書きされていく。それ以外を考えることを許さないような、甘く強引で、そして優しいディープキス。

「ふ、っん……!?」
「んっ、う」

戸惑いの色を浮かべる隙間すら与えずに、ユーエはゆっくりとアルキメンデスを食い尽くす。
濃厚な時間の後に、糸を引いて離された柔らかな唇が名残惜しくなる。

「……ゆ、ユーエ、おまえ、な、何を……」
「んー」

目元を指で拭われても、またすぐに涙が伝う。曖昧な笑みの向こう側にいるのは、間違いなく。

「……だめだった?」
「……ッ、な、そんなこと、言ってない……、俺はだめじゃない、……ユーエ、は、ユーエは」
「だめなら、……しないよ、最初から」

ごめんね、ありがとう。そう言って微笑んで抱き締められるのは、何故だか懐かしい気分になる。かつて歩いた道をもう一度辿るような、――それは確か冬の寒い日、雪が降った外でひとしきり遊んでから、彼女が唐突に話を聞いて欲しい、と言い出した時のことだ。確かな決意を持って彼女が告げてきた言葉から逃げ出そうとして、その身に抱えていた呪いについて話したあとの彼女に、実によく似ている。
脆弱な庇護対象で、突き放せばそれで終わるだろうと思っていた(――けどもしそれで彼女が逃げ出していたら、きっと自分は引き止めていた)彼女が自分の前に立ち塞がって、それでも構わないと言ってきた日のことは、絶対に忘れられない。
ちょっとしたことですぐ挫けて泣きついてくるくせに、自分が縋るに足る強さを持ち合わせている、それがユーエだ。

「何なんだよ、もう、ほんとに、お前は、……お前は、……っ」
「こわいけど、こわくない、……って、なんだか、なつかしい気がした、の……」

一瞬戸惑ったように視線が逸らされて、向けられたのはハッとした顔だった。
相変わらずの曖昧な笑みを乗せた顔がだんだんはっきりとしていって、ぱっと明確に笑ったかと思うと強く抱きしめてくる。

「ううん、……なつかしい、ね、昔のわたしみたい」
「ユーエ……」

覚えのある顔が間近にある。
ゆらゆら揺れるのは再生の花、蘇るのは不死鳥のごとく、深い傷を乗り越えて静かに立つ。

「アル、好き、だいすき」

返答を待たずに彼女はまた、アルキメンデスの唇を奪う。今までの穴埋めを、彼が負った傷に舌を這わせるように、優しく深く、そして限りなく残酷に口付ける。理性の箍が外れるギリギリのラインで唇が離されて、青色の海にまた違った要因で波が立つ。
今ここで何をかもを忘れて、目覚めた狼の衝動のままに食い散らかしてしまえと囁くなにかがいる一方で、それは彼女を踏み躙るのと何も変わらないのでは、と思うと、先に進むことは憚られた。
誘っているのかそれとも何なのか、目の前にいるのは無邪気な子供なのか愛した大人なのか、区別がつけられない。

「……っ、は、……何だよユーエ、おまえ、」
「なあに」
「……誘ってんのか」

そう牽制をひとつ、そうするのもまた逃げのような一手。
本当に手を出されることが望みだとしても、自分から手を出すのはなんだかとても躊躇われて、要は一歩踏み出せるような勇気が欠片もない。また彼女を壊してしまうのでは、そう考えると動くに動けなかったのだ。単にひどく臆病になってしまっただけと言えば、それもそうだ。

「……へへ」

問いかけに返答はなく、困ったような笑い声が落ちただけだった。
迷っているのだろう、もごもごと口元が動いて、何か言おうとしてちょっと開いては閉じ、を繰り返している。

「いや……その、な?ユーエ、男だからな、俺だってな、……そういうこと、考えちゃうからな?」
「……うん、知ってる」

わたしはずるいの、と囁く声がした。
何の事だ、と思っている間に、ぐい、と引き倒される力を感じる。ベッドの上に引き倒された自分の身体の下にはユーエがいて、さながら押し倒したような体制になっていた。

「……ユーエ?」
「こわい、けど、アルだから、平気にしたいの」

首に手を回しながら、

「わたしのこと、汚してよ、アルで塗り潰してよ、――なにもかも、ぜんぶ」

甘く囁いてくるのは震える声。
確かな決意がそこにはあって、無碍にはできないという気持ちと、狼を抑える理性がせめぎ合う。

「……お前、自分が何言ってるのか、分かってんのか」
「わかってる、……わかってる、よ、だって、ずっと、知ってた……、思い出さないようにしてたけどアルは、アルは、わたしの、いちばん大切なひとで、わたしのことを護ってくれるひとで、わたしの、……わたしの、大事な、だんなさん、なの」

そう、捲し立てるように早口で言うと、潤んだ目がアルキメンデスを見つめてくる。
熱に魘されたような、中毒症状にも似た深海の色が、戻れないところへ引きずり込む。

「だけど、ユーエ」
「だから、よ」

思い出したくないから忘れさせて、全て何もかもを塗り潰して。
何故そこまで必死になるのか、彼女は焦っているんじゃないか、そう思ったところで、もはや歯止めは掛からない。
長らく押し止められていた青の狼が解き放たれて、無防備な兎の喉元に食らいつく。

「ユーエ、ユーエ……、本当に、良いのか」
「……いつから、そんなに、臆病になったの?」

かつて歩いた道をもう一度歩んで来たのが今までなら、臆病になるのも、慎重になるのも、無理はない。壊れ物を扱うように優しく、僅かな傷でもつけないように慎重に扱うのは、通ってきた道だからだ。
挑発じみた声に理性は簡単に食い破られ、彼を止めるものはもはや何も残らない。

「……ああ、臆病でもなんとでも言えよ、俺は、……お前を失うのが何より怖い」
「……うん」

あの時手を繋いでいれば。

「今だって後悔してる、……俺が、ちゃんとお前を守ってやれれば、こんなことにはならなかった」

これは懺悔なのかそれとも、

「お前が、ユーエが、何より大切だから、……だから」

海の色から溢れた滴が、ぱたりとユーエの頬を濡らした。
期待か不安か、なにかがない混ぜになったような目の彼女が、やんわりと笑う。何もかもを赦したような。

「愛してやるよ、愛させてくれ、俺に、……もう、絶対、離さないから」

吐き出した何もかもを受け止めて、腕の下のユーエは確かに笑った。
そっと頬に触れて囁く。

「――臆病なアルは、わたしの前だけにして」