サネカズラがゆらめく -5【だきしめる】

次の日からまるで何かが吹っ切れたかのように、ユーエはことあるごとに手を繋ぐのを要求してくるようになった。
それは今までの穴埋めなのか、彼女なりの何か考えがあるのか、そこまでは追求していない。したところで答えてくれないだろう。
もともとアルキメンデスの前では、くるくる子供みたいに表情の変わるひとだったが、ここ最近は輪を掛けてそうなっているような気がしないでもない。それでもずっと沈んだ顔でいられて、視界に入れば睨みつけられるような頃に比べたらずっとましだ。
じい、と見てくる深海の目。それを見返す瞳も海の色。

「ユーエ」
「はい!」
「今日は晩ご飯、俺が作るから」

不思議そうな藍色の目が向けられる。こうなってしまった彼女の前で、料理をしたことは一度もない。

「アルのごはん」
「そうです、俺が作ります」
「お上手ですか!」
「お上手ですーとってもお上手ですー」

幸いにしてこの宿は、客に自由に使わせてくれるキッチンと調理道具があった。オーナーも実におおらかな人で、街外れだからこそのそれかもしれないが、ゆるやかな雰囲気が漂っている。見た目にそぐわないユーエの様子もさして気に留めずに応対してもらえて、これなら安心して長居もできそうだった。
パンの耳と玉葱と挽肉。それから付け合わせとスープに使う野菜をいくつか、それからユーエが食べたいと言ったので、りんご。

「何作るかわかるかー?」
「……わかんない」

相変わらず、ユーエは手を握ってくる。離さない。離してくれない。
今の自分たちは、周りに一体どう見えているのだろう。まだ夫婦には程遠いだろうか。

「お手伝いしてもらうからな」
「たまねぎ?」
「パン粉」

ユーエとの会話は、実に軽快になった。
ただその、彼女の子供らしさ、昔から子供らしさは持ち合わせていたひとだったけれど、あまりにも子供らしすぎる振る舞いは相変わらず続いている。
聞くに、心に負った深い傷が原因で、それから身を守るための逃避行動としての退行だろう、という話だった。現実があまりに受け入れられなくて、子供として振る舞うことで身を守る。彼女が受け入れられるようになるまでは、ずっとこんな状態だろうから、支えてあげてくださいね、なんて、彼女を医者に見せたときに言われたのだ。言われたとおりに、彼女に付き合ってここまで来たけれど、時折大人の彼女が恋しくなる。唐突に深みに嵌まるように全てを受け入れて包み込んでくれた頃が、恋しくて仕方がなくなるのだ。光のない深海の、唯一の光が、今は失われている。

「ぱんこ?はないです、おみみはある」
「パン耳細かくしてパン粉にするんだよ」
「パン耳びりびりする!」

ふんふん意気込む彼女に手を握られたまま、街外れの宿まで戻っていく。その日の晩御飯をなににするのか、ユーエは結局宿に戻ってもわからなかった。


玉葱をみじん切りにする。ついでに他の野菜も切ってしまう。
ユーエに任せたパン粉作りは遅々として進まず(パンの耳つまみ食いしてたりみじん切りするアルキメンデスにちょっかいを出してはたまねぎで目をやられてびーびー泣いていた)、入れなくてもなんとかなるからいいか、と玉葱をボウルに入れて、挽肉を投入する。

「おおー?」
「こねるぞ」
「ぺちこね!」

つまみ食いを隠すこともなく口の端にパン粉をつけたユーエには、自分に与えられた作業よりもアルキメンデスのしていることのほうが楽しげに見えるらしい。
きらきら輝く瞳が、挽肉をこねる無骨な手をじいと見ている。

「やるか?」
「ぺちこねする!」

ボウルを差し出せば、小さな手がわっと突っこまれた。
見ていたのを見様見真似で、小さい子が無邪気に動物を掴んで殺すような勢いで、挽肉が握り潰されては押し潰される。隣でさっきまでしていた手の動きをやってみせれば、それを見ながらやり始めた。

「アル!」
「なんだ」
「どうやったらおいしくなるですか、ごはん」

手を止めた真剣な目が覗き込んでくる。

「そうだなあ、おいしくなあれーって念じながらぺちこねする」

目の前の子供のような彼女のために、自分ならそうする。

「……わかった……、おおーいしくなあれーおいしくなあれー」

念じるって言ったのに!
笑いを堪えるあまり手元が狂って指に包丁の刃先を滑らせ、指の皮がごく薄く剥けた。ユーエは真剣そのものなんだろうから笑うわけには行かないのだけど、指を切らなくてよかった。余計な心配をかけてしまう。

「たくさんぺちこねしたら形作るぞー」
「それまでにおいしくなる……?」
「なるなる、絶対なる」

付け合せにする野菜を切り終えて、不安そうな様子でボウルを差し出してくるユーエに、にっと笑いかけてみせる。
よくできました、の意味でしっかり受け取ってもらえたのか、彼女の顔がぱっと明るくなった。

「じゃあ、形を作ろう……、ちょっと長い丸」
「……ちょっとながい、まる」
「お手本これな」

手のひらくらいの、小判型に成形された挽肉の塊を見せてやれば、すぐに同じようにやりだした。大きさまで合わせようとすると、とてもじゃないが手に余す。
アルキメンデスが二つ目を作り終えたあたりでようやく一つ目、不器用なのか慎重にやっているのかはわからないが、だいぶ不格好な挽肉の塊が、綺麗な小判型の隣に置かれた。

「ううー」
「上手上手。その調子だ」

ユーエをちょっと褒めてやれば、にこにこ笑って二つ目にとりかかる間に、こちらではもう三つ目ができあがる。少し多めに材料を買ったからか、最終的にハンバーグとして成形されたのは六つになった。不格好なのが二つと、綺麗なのが四つ。
あとは待ってな危ないから、とユーエに声をかけてフライパンを熱する間も、ハンバーグを焼いている間も、背後からずっと視線を感じ続けていた。物珍しいのだろう。今までこうして料理する姿など、見せたことがないから。――この、彼女には。

ほぼ毎日ご飯を作ってあげていた本の中。そもそも出会ってすぐの頃は、彼女に、最初はクッキーを。それからハンバーグを。……そう、作って与えたのが始まりで(――鮫のぬいぐるみがどうとかいうと彼女が顔を真っ赤にして拗ねるのでそれは置いておく)、それから彼女が野宿をしていることが分かって、そんな年端も行かない女の子が野宿だなんて、と手を差し伸べたら、女の子、なんて年齢じゃなくて、自分とたった二つしか違わない大人の女性だったのだ。あの頃の彼女は、背中を丸めていつも何かに怯えているような振る舞いをしていて、とてもじゃないけど歳相応には見えなかったし、何より守ってやらなければならないと思わせる何かがあった。それがどうだろう、拾ってみた(というと語弊があるけれど、何も間違ってはいない)彼女はいつの間にか自分に恋をして、確かに一人の女性として、アルキメンデスの前に立った。蛹が蝶になるように艶やかに劇的に、そして狩人が矢を放つように的確に、ひとりでいようとしたアルキメンデスの心を射止めて、狩り殺した。狩り殺された瞬間からもう、ひとりで立つことは叶わなかったし、ひらひらと危なげに飛ぶ蝶は簡単にその 翅を傷めるし、挙句自分の身すら躊躇いなく削るのだ。毒蝶だったのかもしれない。そしてその毒の特効薬はそれ自身で、あとは螺旋状に依存が進んでいくだけだったのだ。喪われることを恐れて、強固に組み立てたはずの心すら揺らぐ、強力な毒だ。

「……よーし」

揺らいだ心の隙間にひんやりと風が吹いているのを埋めるにも、目の前の彼女に頼るしかない。

「お、おおー……」

ただ、自分は思っていたよりもずっとずっと単純で、たとえ、触れることができなくても、本当に少し、彼女が笑顔を見せてくれれば、それだけでまだ戦える気がしてくるのだ。

「ハンバーグでーす」
「お、おー……ハンバーグ!わたしハンバーグすきよ!」
「知ってる。俺に作ってくれたこともあるもんな、……」

綺麗に盛りつけられたハンバーグがテーブルに置かれた。
そしてそう口走ってからはっとする。この彼女の記憶は一体どうなっているのか、今彼女はどこまで覚えていて、どこから覚えていないのか、何を許して、何を許していないのか――

「――わたし、が?アルに?」
「あ、いや、いいんだ、気にするな。さあ食べよう、冷めちゃうぜ」

遠い目の彼女に、言葉を発した後悔だけが募り行った。余計なことを言ってしまったろうか、彼女の負担を増やしてしまったのではないだろうか、今のは明らかに言う必要のなかったことで、ああ。
困惑の表情を見せる彼女をテーブルに座らせれば、すぐにその表情は塗り替わった。

「おいしそう」
「料理は自信あるからな。さ、食べよう、……いただきます」
「いただきます!」

ナイフとフォークが真っ先にハンバーグに伸びて、一口サイズに切られたハンバーグがユーエの口の中に放り込まれた。
咀嚼するのを見ているだけで、何故か異様に緊張した。

「どうだ?うまいか?」

平静を装った声が震えている。

「――おいしい!アルのごはん、いつ食べてもおいしい」
「そうか、ならよかった」

いつ食べても?

「わたしのだいすきなハンバーグの味ね」

それきり、今まではご飯の時でも何かしら話しながら食べていた彼女が、全く何も話さなくなった。
それはまるで。

「(――こうなる前、みたいだ)」

黙々と何も話さずにハンバーグを口に運んで咀嚼しては、いちいち顔が綻ぶのだ。何度も、何度も見た覚えのある姿だった。
期待が立ち昇る。それと同じ分だけ、不安が降り注ぐ。ろくに手が進まない。

「――アル?だいじょうぶ?ごはん、さめちゃう……」

問いかけてくる話し方は、幼い。

「……ああ、うん、大丈夫だ。おいしかったなら良かった」

そうしてまた彼女は笑うのだ。
緊張か何かでろくに味のしないハンバーグを、なんとか胃に押し込むので精一杯だった。見覚えのある笑顔が、ひどく惑わしてきた。


片付けを終えて部屋に戻る途中のことだ。
相変わらず移動の時は手をつないでくるユーエが、不意にその手を離した。

「……ユーエ?どうかしたか? ……!?」

外された手がそのまま腰に回され、緩やかに力が込められる。背中側からやんわりと抱き締められて、心が一気に揺さぶられた。
今何をされているのか。理解するのにとんでもなく長い時間がかかった気がした。

「ゆ、ユーエ、なっ、な、何を」
「……んんー……ごはん、……おいしかった、の、ぎゅーです」

なんだか口ぶりがわざとらしく感じる。
それはそう、『彼女』が、自分のことをからかうようなそれで、

「わ、分かった、それは分かったから、部屋!とにかく部屋に、っ、うおあ」
「……どうしてそんなに、あわててるの?」

耐え切れなかった。
ユーエの腕を振り払い、その振り払った腕を掴んでずかずかと歩く。部屋に入ってドアを閉めて、それから、改めて彼女に向き直った。
海の色が潤む。

「違う、慌ててる、とか、そんなんじゃない」

言葉を紡ぐたびに、一緒になってこぼれ落ちる何か。

「そんなんじゃない、俺は」

波立った心の奥底から溢れてくる。

「俺は、……ッ、嬉しい、んだ、嬉しいんだ、ユーエが、……ユーエが俺の作った飯食っておいしいって言ってくれたのが、おいしいって、言って、笑ってくれたのが、ッ、……うれ、し、」

言葉はもはや続けられない。その代わりに口から溢れるのは嗚咽で、一緒になってこぼれ落ちるのは大粒の涙だ。
縋り付いて泣きたい衝動を抑えているのがやっとで、みっともない姿を見せてしまったのが悔しくてどこかに逃げ出してしまいたくて、どうしたらいいのかわからなくて、呼吸すら怪しくなる。
ゆらめく。手が伸びてくる。

「アル」

ユーエの両手がしっかりとアルキメンデスの身体を捉えて、ごく弱い力で引き寄せられる。流れのままに導かれた身体はそのままベッドの方まで誘導され、彼女が腰掛けたところに引きずり込まれるようにして、倒れ込むことを強いられた。
その、胸へ。深海へ。引き込まれる。

「あ、あ」
「こういうとき、わたしは、いつも、なんて言ってた?」

加減がわからないのか、随分と恐る恐る抱き締められた。もっと強くても構わないのに、それを伝えたくても、問いかけに答えたくても、何を話そうとしても、口から漏れ出るのは言葉以下の嗚咽なのだ。
無様だと思った。こんなふうに縋るしかできないなんて、

「……ごめんね」

どうして君が謝るのか。

「ありがとう、ずっと」

張り詰めていた糸が切れたのか、それとも彼女が引きちぎりに来たのか、定かではなかったがそれはもうどうでもいい。
今はただ、波立つ荒れた海が穏やかになるまで、ひたすら彼女に縋ることしかできない。
いつかの記憶にあるように優しく頭が撫でられて、そのたびに不格好に泣いた。今までの分すべてを、吐き散らかして、押し流すように。