サネカズラがゆらめく -4【てをつなぐ】
随分と長居した宿に別れを告げて、二人分の荷物を抱えて歩き出す。荷袋の紐の端をつかんだユーエが恐る恐る後ろからついてきていた。
女性らしさはどこへ行ったのやら、すっかり地味な色の服に身を包んで、不安そうに辺りを見渡しながら後ろをついていくのは、まるで雛鳥のようだった。
「……あ、あー、いつまで、歩く?」
「まだまだ歩くぞー」
「……うー……がんばる……」
ユーエは歩きだして早々にそんな弱音をこぼし、5分ほど歩いたらすっかり黙り込んでしまった。先が危ぶまれる。周りを行き交う人々に必要以上に注意を払っているのが見て明らかで、彼女が行きたいと言い出したとはいえど、やはり無理があったのではないかとすら思う。
それでも泣き言は言わないのは、彼女なりの決意なのだろうか。
「もうちょい歩いたら馬車に乗るから、それまで頑張れ」
「うえっ……う、うん」
ただ街を歩くだけなのに、真剣な目で難しい顔して、ぎっと歯を食いしばりながら歩くのだから、それはまあ疲れるだろうことは容易に予想できた。
彼女が荷袋の紐の端っこを掴んでいるとは言っても、直接触れているわけではないからこちらとしても気が気ではない。後ろに神経を使いながら歩くだけでも疲れるのに、何もかもに気を散らしていたらキリがないのはとてもよくわかった。
おかげでもうちょい、がだいぶ長くなりそうで。
「疲れたんなら休むか?」
問いかけには首が横に振られた。
まだ頑張れるよ、と言いたげな顔を見せるのを返事の代わりにして、ぺたぺたと歩いてついてくる。
「無理はするなよ」
聞こえているのかいないのか、反応らしい反応はなかった。
代わりに少し、歩く速度が遅くなる。
「ユーエ、俺も荷物持ち直したいからついでに少し休もう。紐離してくれ」
「……はあい」
やっぱり無理してたんじゃないか。
この辺りも出会ってすぐの頃から変わらない。どれだけ無理をするなと言ったって、ユーエは過剰なくらいにアルキメンデスの役に立つことに執着していた。たとえそれが自分の身を削ることになったとしてもだ。本の中で自傷してまで戦っていたことを知った時にはすさまじく肝が冷えた。
「アル、お水ほしい」
「ん、ちょっと待ってろ」
求めに応じて水筒を放ってやる。
「アルは、いる?」
「俺は大丈夫。ありがとうな」
水を飲むユーエを尻目に荷物をまとめ直せば、片手が空きそうだった。充分片手で担げる重さなのを確認して左手で背負い上げれば、出発の合図と受け取ったユーエがすっと立つ。
「行けるか?」
「……へいき!」
そんな彼女が逸れないようにと掴んできたのは、アルキメンデスの上着のだいたい腰のあたりだった。
気持ちは痛いほど分かるけれど、けれど!
「ゆ、ユーエ」
「う?」
「せめて袖の方にしてくれないか、歩きにくい」
彼女は申し訳なさそうな顔で右袖の裾を掴み直した。
そうしてなんとか馬車に乗るところまでこぎつけ、予定は恐らくだいぶ押しているものの、目的の街には今日中に着けそうなことがわかって一安心しているアルキメンデスの隣、ユーエは荷物を枕にしてすっかり寝こけている。
ようやく気を張らなくていい空間に落ち着けたのだから無理はない気がするが、いつも、――以前、だったら、何の躊躇いもなく膝枕を要求してくるのに……というのは頭の端っこに追いやっておいた。
隣で寝こけている彼女は、前に比べれば幾分か穏やかな表情で眠っている。それに少し安心した。
「……はー」
思い返してみればあっという間だったかもしれないし、そうでないかもしれない。
ただ必死に駆け抜けてきて、ようやくここまで来た、ということに変わりはない。睨むように拒絶の意思を示されることもなくなり、ぎこちなくはあるけれど笑顔を見せてくれるようにもなった。特にりんごを食べるときとか。
そういえば久しく料理していないから(そんな余裕がなかった、というのが一番大きい理由だ)、そのうち何か料理を作ってあげてもいいのかもしれない。ハンバーグはこの状態の彼女でも好きなものなのだろうか。
外の景色がゆっくりと移り変わっていくのをぼんやりと眺めながら、この先のことを考える。海に近いとはいえ、それなりには歩かなければいけないし、しばらくは滞在することになることは間違いない。そもそもまず宿を探さなければならないし、それで早めに着きたかったのだけど、そううまいこといかない覚悟もしておかなければならない。
やはり早計だったのだろうか。
「……、……ごめんな、ユーエ……」
未だに後悔する。
あのとき、せめて手でも握っていればこうはならなかったのだろうか。
「……ごめん」
彼女をこうしてしまったのには、自分に責がある。それはこの先ずっと変わらないし、ずっと付きまとってくるだろう。一生かけてだってその責は償うつもりでいるし、一生かけたところで到底足りるようなものではない。
元より一生添い遂げると決めて、彼女の運命もこの先の人生も何もかもを変えてしまって、彼女の世界を捨てさせて、ここまで来ている。それでもいいよ、と言ってくれたのは確かにユーエではあるけど、すこし後ろめたいところはあった。
それでも、彼女は文句ひとつ言わずについてくるのだ。
刷り込みされた雛鳥か何かのように、黙って後ろをついてくる。雛鳥のようなくせして一丁前に戦えはするから、油断していたのかもしれない。
後悔の色で塗りつぶしたように、見上げた空が暗くなりつつあった。
「……ぅ、……あ、る……」
背後から声がして、思わず振り返った。
「!? ユーエ、……、……」
まるで絞り出すような声だったから、何かあったのかと振り向いたものの、当の本人は相変わらず荷袋を枕にしてぐっすりと眠っている。寝言だ。安心と呆れの等分に混じった溜息をひとつ吐き出して、視線を外に戻した。
ユーエは何か夢でも見ているのだろう、しきりにごそごそと動いている。
「……ありゅー……」
「……何だ、ユーエ。俺ならここにいるぞ」
また呼ばれた。
舌っ足らずな声で呼ばれて、そんな声で呼ばれたのもいつぶりか、思わず唾を飲む。
「……あー……」
何かを探るように伸ばされた手が、虚空を彷徨う。
そのまま身を伸ばされると落ちそうだったから、申し訳ないけど押し戻そうと思って伸ばした右手がユーエの手に触れて、
そのまま、指を掴まれる。
「!」
「んー……」
それで満足したのか、腕はだらりと垂れ下がった。座席から落ちそうなのだけは押しやって元の位置に戻して、それでも動揺が隠せない。今、確かに、ユーエに手を握られている。彼女が夢の中で、何を見ているかまではわからないけれど。
指先にかかる圧がじわじわと何かを解きほぐしていくような、
「うー」
手は離された。
時間にしたら一分あったかどうかも怪しい。ただ、それだけでも肩の荷がなにかひとつ、大きな音を立てて落ちていったような、そんな気さえした。自分はそういう単純な生き物なのかもしれない。それならそれで構わない。
右手の指に残る感触が心の中にざわざわと小波を立てて、いろいろな感情が寄せては引いていった。
そんなアルキメンデスの様子を知ってか知らずか、ユーエはまだ眠りについている。
がたごととひっきりなしに続いていた揺れが止まる。着きましたよ、と声がかけられて、寝ているユーエを揺すり起こした。
「ユーエ」
「ふえー……」
「着いたぞ、降りるから」
「んむ」
寝ぼけた様子の彼女を見ながら思う、――彼女は、覚えているのだろうか。
そんなことを聞いてもしょうがないと思ったので、早々に荷物を抱えて馬車を降りた。
海の匂いがする、とはしゃぎ回る様子を見て、なんとかここまで連れてきてよかったと強く思った。
街外れの宿を押さえて荷物をおいて一息ついても、彼女はずいぶんと元気そうにしている。今からでも海に行っても、と言わんばかりだったが、さすがにそれはさせられなかった。もう夜だ。
「……ユーエは元気だなあ」
「んんー?うみ、ちかいからです!」
アルはつかれてるの、と問いかけられて、曖昧に笑うしかできない。移動の疲れもあったが、それ以上に気を遣っていたことが大きいのかもしれない。彼女とその周りに。
背中からベッドに倒れこんでぼんやりと天井を眺めていると、唐突に薄緑が降って来た。それがユーエの長い髪の毛だと気づくのに、だいぶ時間を要した。
「うわっ」
無造作に結ばれた長い髪が視界を奪っている間に、手が持ち上げられる感覚があった。髪の毛を振り払って視界を確保して、面食らう。
「……ユーエ?」
アルキメンデスが倒れこんだ直ぐ側に腰掛けたユーエが、彼の右手を捕まえていた。両方の手で。
手の平を押される感覚がある。両手の親指で押されていることに気づいたのはすぐ、けれど状況がどうあがいても掴めない。
「あのね」
夢を見た、と彼女は言う。
夢の中の彼女は、真っ白いワンピースに麦わら帽子を被って、砂浜の上を誰かと二人で歩いていたと言う。誰かと指を絡め合わせて手を繋いで、ひたすら海沿いを歩いている、そんな夢を見た、と。
「いっしょにいたのは、きっと、アルなの」
背格好が似ていたから、きっとそうで、だから今少し頑張って、手を触ってみることにした!というのが事の顛末らしい。手の平を押したり指を引っ張ったりつねったり、なんども繰り返してから、そこに危険がないことを確認したかのように、まるで包み込むように、手を握る。
――心当たりはある。その時もユーエが海に行きたいと言い出して、二人で砂浜を歩いた。服装までは覚えていないけれど、そこから導かれた夢なのだとしたら。
「ユーエ、……」
「あったかいね」
そっと指を絡めてくる。思わず強く手を握り返しそうになって、代わりに固く目を瞑った。
「……? アル?どうしたの?おててこわい?」
「怖くないよ」
力加減が分からない。どうしたら彼女を怯えさせないで済むのか分からない。久しく手なんて握っていなかったし、そもそも、彼女に触れるのに気を遣っていた期間がそんなにあったわけでもなく、出会った当時のひとに怯えていた彼女は、すぐにアルキメンデスに心を開いて慣れてしまったから、今までのほうがよっぽど気を遣ってきたくらいだ。
何かを悟ったのか、手が離れていこうとする。待って、やめて、
「――離さなくていい、……離さないで、くれ」
掠れたような声しか出せず、極力取り繕った微笑みをなんとか顔面に張り付け、ユーエの方を見やった。
心配するような視線が降ってくる。そんな目で見ないでくれ。
「……だって、アル、手が、……ふるえてる、のね、……こわいから、じゃないの」
「――!」
言われるまで気づけない。
「こわいのはいやよ、……ほんとに、こわくない?」
「怖くない、……怖くないから、離さないでくれ、……このままで、いてくれ、頼む」
縋る声に戸惑っている姿が、網膜を焼いた。何も言えない。これ以上、口を開いたら、泣いてしまいそうで。
ユーエはそれ以上何も言わなかった。指を絡めて手を握って、空いた方の手で包むように。小さいユーエの手では、男性の手は手に余す。それでもなんとか全部包み込もうとでも言うのか、彼女の指と手の平が、何度も握られた手を撫でる。
「……ごめん、ごめんユーエ、ユーエが、嫌なら、離していいから……?」
「いや、じゃない!」
途端に手の甲がちくりと痛んだ。爪を立てられたのだ。
睨むような、というよりは強い決意に満ちた視線がまっすぐに捉えてくる。
「こわい、……かった、けど、なんだかだいじょうぶな気が、したから……、……それに、ゆめのアルは、おててつないで、うれしそうだったのよ」
わたしも、と付け加えて、もごもごと何か言いたげに動いた口はその後結局何も言葉を吐き出すことはなく、そのまま困ったような笑顔が浮かんでくる。
とん、と一撃、たった一撃加えられただけで致命傷になるようなつくりでいるつもりは、なかったのに。無邪気な無意識の一撃は、まったくもって無慈悲である。
「ユーエ……! ……ッ、う」
顔を背けて布団に顔を埋めるので、精一杯だった。悟られてはなるまいと思っていても、ぼろぼろ溢れてくる涙が止まらない。どうしたの、とおろおろしたような声が聞こえてきてなお焦った。焦りだけが加速して、涙は全く止まってくれない。
手を握られる力が、強くなったのを感じた。
「こわいの?……それとも、いたいの?どっちも、いやよ、……わたし、……わたし」
「ちが、っ、違うんだユーエ待ってくれ、……嬉しい、んだ、俺は、」
手を取ってくれたことが。
ようやく彼女の世界に引き込まれたような気がして、何よりも嬉しい。
「――だから、もう少しだけ、このままで」
返事はなかった。手を離されることもなかった。