サネカズラがゆらめく -3【めをあわせる】

布団の中から呪詛のような呻きが聞こえる。辛うじて拾えた言葉が「こわい」で、胸が締め付けられた。
無理もないんだ、と自分に言い聞かせて、そっと声をかける。

「俺は何もしないよ、ユーエ……」
「……どうして、わたしのおなまえ、わかるの?」

布団の端からちらりと藍色の目が覗いた。警戒と怯えの視線は、初めて出会ったときや、彼女を保護した時に浴びせられたそれよりも遥かに鋭く、アルキメンデスに突き刺さる。
ゆっくり話す姿は、まるで小さな子供だった。

「……分からないか?ユーエ、俺のこと……、二人で、一緒に、ここまで来たんだ」

あんまりにも彼女が可愛いから子供扱いしたくなることがよくあって、そのたびにユーエは頬を膨らませて怒るのだ。わたしは子供じゃないわ、と言う姿からもう可愛くて、頭を撫でてやればにこにこ笑って喜ぶ。そこが特に子供っぽくて可愛い。もちろんいつもいつも子供扱いしているわけではなく、然るべき時は大人の女性として見ているし、あくまでひとつの冗談として、そう彼女を扱うことがある、という話だ。
今目の前にいる彼女は、そういうのを置いておいても、子供にしか見えない。

「……ふたりで?そうしたら、わたしとおにいさんは、なかよし?」

傾げられる首が、今までのすべてを殺しにかかってくる。
なかよし、だなんて、そんな言葉で片付くような関係じゃない。誰よりも大切で愛しくて護ると誓って、一生添い遂げると決めて、その約束を守るためだけに、ここまで来たのに、

「……ああ。そうだよ、誰よりもなかよしだ」

叫び散らしたい気持ちを抑えて、努めて穏やかにそう言った。彼女が怯えてしまわないよう。
不思議そうな顔でじろじろと眺められて、虫の居所がとても悪い。

「なかよしだけど、わたしはおなまえわからないの」
「仕方ないさ、……怖いことがあって、その時に一緒に忘れちゃったんだよ」

いつもの癖で手を伸ばしたら、触れる前に布団の中に逃げられた。今の彼女をどう相手したらいいのか全く分からない。一緒に住み始めた頃と同じようにすればいいのだろうか、その時と違うのは、彼女が何も覚えていないことと、その時以上に何かに怯えそうなことと、自分が、その時よりずっと遥かに、ユーエという人間に依存していることだ。
けれど今、数日前までのユーエはいない。どこかに逃げてしまった。もしくは、失われてしまった。
自分の愛した咲良乃ユーエは、今、どこにもいない。

「……こわいの、いや……」
「大丈夫だ、……俺が、護るから。ユーエ」

だから布団から出てきてくれないか、そんな願望はきっと叶わない。今の彼女にとって、自分は見知らぬ男でしかない。彼女を襲ったそれと同列に立っている。だから今自分にできることは、それらとの違いを示していく他にはなかった。
何より、一生添い遂げると決めているから。彼女がどうなろうと生きている限りは、そばにいると決めているから。彼女が待っててくれたように、自分も待てばいい。それだけのこと。
手の届くところにいなくて不安に駆られた昨日までよりはずっと遥かに、心が落ち着いているのを感じていた。

だから、まだ、戦える。

「……な?」
「おにいさんは、やさしいのね」

再び覗いた深海色の瞳は、幾分か穏やかだった。

「……お兄さんは、アルキメンデスって言うんだ。アルって呼んでくれ」
「……アル?」
「ああ。それでいいよ、ユーエ」

また頭を撫でそうになった右手を押し戻して、微笑む。ひどく久し振りに名前を呼ばれた気がして、ほんのすこし満たされた気分になる。
思い出したように、りんご食べるか?と問いかけると、すぐに返事が返ってきた。

いつもはするすると剥いてしまうりんごの皮を、何を思ってかうさぎの形にして並べて出したら、ユーエの強張っていた表情がいくらか柔らかくなった気がした。
小動物のように黙々とりんごを食べる姿は実に可愛らしいのだけど、他の宿泊客の足音に身をすくませる姿は、見ていてとにかく痛々しかった。つらくなる。
何より彼女は、こちらと目を合わせてくれない。それが一番辛かった。元から人と目を合わせることは苦手だと言っていたのは記憶しているけれど、ここまで露骨に逸らされると悲しくなる。けれど何も言えない。

「まだあるけど、もっと食べるか?」
「……いらない」
「そうか」

明日から、これから、どうしようか。
元より大した目的もなく、いろいろな世界を見て回るためだけの旅である。ユーエが体調を崩して同じところに長く留まったことは今までもあったが、今回はどうすればいいのだろう。

「……アル、」

そんな不安を読み取ったかのように、ユーエが問いかけてくる。

「アルは、どうするの」
「どうする、って……」
「あした、あさって、もっとさき……」

あそぶの?おうちにかえるの?と、純粋な疑問の声が部屋に響いて、無慈悲にアルキメンデスの心を抉っていく。互いに帰るところはない。遊ぶと言ったって、今の彼女はそもそも外を歩けるのか、そこからが心配でたまらない。彼女を危険な目に合わせたところを歩かせたくはなかった。

「そうだなあ、どうしようか」

何かしたいことはあるか、そう彼女に問いかけてみたが、答えはなかなか返ってこない。

「……ユーエ?別になんでもいいんだぞ、なにもしないでここにいるでもいいし、どこか行きたいっていうなら連れて行くし」
「……う、え、……でも……」

なにか覚えのある反応な気がした。
何をするにしても迷惑だから、と、そう言うような彼女には覚えがある。それはまさに、一緒に住み始めてすぐの頃の彼女だった。

「……ユーエ?言ったじゃないか、俺達は――」

夫婦なんだから。

「――なかよし、なんだから。誰よりも」

ニュアンスとしてはなにひとつ間違っていないとはいえ、大きくレベルが下がったような気がして、気分が落ち込みそうになる。気を強く持たねば彼女に心配されるだろう、そう思えばなんとか持ち直せた、その時だった。
なかよし、という単語を何度か反復したユーエが、不意にへにゃりと笑った。

「――なかよし」

本当に一瞬、彼女は確かに微笑んだ。
それだけで十分なくらい、今までのあれやそれやがすっと浄化されていくのを感じる。抱きしめたいのも頭を撫でたいのも押さえつけて、いつもの調子を装って、微笑むのがやっとだった。それくらい動揺した。

――うみに、いきたいのね

そう言ったユーエを海に連れていくことを約束して(――それはもちろん、彼女の体調が良くなってから)、一息つく。
海が好き、と言った彼女の、本質は何も変わっていないんだ、彼女のままなんだ、ということを認識して、それはなんとなしに希望の光になる。いずれきっと、今までの彼女は取り戻せるんだ。長い旅になるかもしれないけれど、何年かかったっていい。彼女を、強いては自分を救う為には、頑張らなければならない。

なかよしを、夫婦と言える日が来るまでは。



――アルキメンデスって言うんだ。アルって呼んでくれ

そう言った彼はなんだか初めて見る気がしなくて、その青色はどこか懐かしい気がして、他の青色よりもずっとかっこよくて好きなように見えた。
でもそんなひと、ぜんぜんおぼえていない。
彼がどうして優しくしてくれるのか、優しくしてくれるのが怖すぎて、彼は何度も自分の頭を撫でようとしてきたけど、その度とてもこわくなって、布団に潜ってしまったけど、別に避けなくてもいいんじゃないか?と思う自分も確かにいる。
けどこわいから。
お出かけ、連れて行ってくれるらしい。けれどそとはこわいところ。一緒に海に行くんだって。やっぱりやだ、っていったらおこられるかな。

「……ある、……」

初めて呼ぶ愛称ではないな、と思った。どこで呼んだのかさっぱり思い出せないけれど、もしかしたら別の誰かが同じように呼んでくれ、といっただけかもしれない。

「……」

りんご美味しかった。とても食べたかったからもっとたくさん食べたかったけど、申し訳なくて、強がって、いらないなんて言ってしまった。
りんごは好きだけど、好きってことをあのひとに教えた覚えはない。何で知ってたんだろう、ただの偶然かな。

「アル、と、わたしは、なかよし……」

誰よりもなかよし、と彼はそう言っていた。
なかよしな人のことを忘れてしまうことなんてあるのだろうか、だとしたらそれはとても悲しいことだ。

とてもかなしいことだ。

「う、え……?」

そう思った瞬間にぼろぼろと溢れてくる涙が止まらず、そしてひどく寂しくなった。ひとりにしないでほしい。お願いだからひとりにしないでほしい。ひとりはこわい。とてもこわい。
布団を被ってぐすぐす泣いている間にも、ひとりにされてしまいそうな気がして、かと言って泣いている姿を見られてもいいのかもわからないし、ただひたすら辛さだけが積もっていって消えてしまいたくなる。
そもそも今何でこんなに辛くて悲しいんだろう、わたしにそんななかよしなひとなんていたっけか?

「ユーエ?」

布団越しに声が聞こえた。
隠しているつもりでいたのに、バレバレだっただろうか。

「う」
「……辛いのか?」

どうして辛いのかはわからないけど、それはそう。

「俺はここにいるからな」

布団の上からほんの少しの圧を感じて、きっと上から手を置かれたのだろうと思った。それを確認する勇気はない。
それでもひとりじゃないことが分かれば、なんとなく安心はできた。
このおにいさんはきっとやさしいひとで、――前にも、こんなことが、あったような……


そうしてなんとも言えない絶妙な距離感を保ったまま一月、また一月と、ゆるやかに月日は流れていく。同じ空間にいるくせに姿すら見せてくれない日を何度も繰り返して、それでも側にいることはやめなかった。
毎晩彼女が泣く。恐怖に怯えてか、それとも別の要因かわからないけれど、だからこそ側にいる。何もせずに、というのは苦痛ではあったが、それが最前手だった。本当は全力で抱きしめてあげたいところではあったが、触れることすら彼女に許されていない以上はどうしようもない。自分はまだ立っていられるし、最悪の事態を避けられただけ全然いい。何を差し置いても優先されるべきは彼女のことだ、と、自分に言い聞かせ続けながら、ひたすら側にいた。
悪意がないことを示し続けて数週間でようやく布団を盾にされなくなり、それからもう少し時間が経ってから一緒にご飯を食べてくれるようになった。ゆっくりのんびり咀嚼しながら食べる姿の中に時折、にこりと笑う以前の彼女が顔を出す。それを見るのを心の支えにして、なんとかやってきているという感じだ。
本当にゆっくりと、それでも確実に、彼女は前に進んでくれているのだから。

「……あー、アルー」

しゃくしゃくとりんごを頬張りながら、ユーエが呼んでくる。

「お行儀悪いぞユーエ、食べてからにしろ」
「んむー」

言われたとおりに素直にりんごを噛み砕いて飲み込んで、それからすっと藍色の瞳が真っ直ぐにこちらを見てくる。
知っている。ここで目を合わせに行くと、彼女は目を逸らす。

「どうした」
「あのね!」

意図してずらしていた視界に、深海の色が飛び込んできた。

「うみ、いきたい」

どうしてこっちを見てくれないの、と言いたげな瞳が揺れている。それから不思議そうな表情に変わったのは、きっと自分が面食らった顔をしていたからだ。
ようやくひとつ報われたような気分と激しい戸惑いが混在して、うまいこと笑えたかも自信がなかった。

「そうか、じゃあいろいろ準備しないとな」
「おでかけの」
「ん。ここからだと遠いからな、次の街まで行くぞ」

おそとはこわい、と出かけるのを散々渋っていたけれど、何の心境の変化だろう。まっすぐ見つめてくる視線の中に、確かにいつか見た、彼女の強さがある気がした。

「とおい……」
「ながーいお出かけだけど、頑張れるか?」

少し考えるように伏せられた目が、すぐに上がってきて、また目が合った。

「アルがいっしょなら、きっとだいじょうぶ」

ようやくこちらの存在を認めてくれるようになった彼女の頭を撫でたい衝動を抑えて、にっと笑ってみせた。
釣られたように僅かに、ユーエも笑った気がしたのは、はたして思い込みなのかそうでないのか。