サネカズラがゆらめく -2【しかえす】

衰弱しきっていたユーエの眠るベッドの横で、ただ彼女を眺めていることしかできなかった。
生きていたことを先ず喜ぶべきなのは、分かっている。抱き上げた身体は暖かかったし、今目の前で眠っている彼女の胸は、規則的に上下を繰り返している。可愛い顔に擦り傷がついていたのが許せなくて、歯噛みするしかない。

彼女は確かに、自分を拒絶した。
それどころか、名前を呼んでいる相手が目の前にいることも、分からないようだった。

原因は目に見えて明らかで、彼女はきっと、自分の傍から離れていた間に、辱めの限りを受けて、蹂躙され尽くして、どうしようもなく汚されていたのだ。頬の傷だってその時についたものに違いないし、確認してはいないけれど、肢体とて例外なく乱暴に扱われたに違いない(――ただアルキメンデスが確認などしようものなら、ひどく暴れられるかなにかされるだろうというのは、目に見えていた)。本の中にいた時だって、一緒に旅をするようになってからだって、ユーエの精神面が随分と脆いことは知っていた。簡単に崩れるくせに無理をする、けれど時々異常なくらいに強い、そんなメンタルの持ち主が、さらに言えば過去に怯えて生きていた彼女が、耐えれるのかと言われれば、首を傾げる。
でも欲を言えば、耐えていて欲しかった。頑なに前に立つことを選んで、どれだけ攻撃を受けても立っている姿を本の中で見過ぎたせいか、そんな期待をしていた。

抱き締めたい。
この腕の中に収めたい。
汚された彼女を、青色で塗り潰してしまいたい。
もう二度と離れて行かないように、刻み込みたい。
何度でも所有権と占有権を主張して、こちらだけを見つめさせたい。

それはきっと、少し、どころか、だいぶ長い間、叶えられそうにない望みだ。

「……ああ」

どろどろとした何か得体の知れない感情が溢れ出して、身体全体に染みていく。許さない。許さない。絶対に許さない。死を以って罪を償え、汚した悪は根絶やしに、――殺す。
今まで強固に、強固すぎるくらいに固めてきたこころがぱらぱらと崩れ落ちていって、光を反射して輝いていた外殻が呆気なく剥がれていって、淀んだ色を晒していく。空いた穴から垂れ流しにされていくのは、その中にずっと、ひた隠しにしてきたどす黒いなにかで、それが揺らめいて囁くのだ、

――殺さなければ。

今自分はどんな顔をしているのだろう。
ユーエは、いつものユーエなら、今の自分をどうするだろうか。止めるのだろうか、見送るのだろうか、そんな思考もゆっくりと、まっくろな殺意と憎悪と絶望に塗り潰されていく。
殺す。
絶対に、全てを殺す。

「ユーエ」

これくらいは許して欲しい、寝ている彼女の額にそっと、触れる程度の口づけを落とした。
立ち上がる。そっと、部屋を出た。


それはここいら一帯を縄張りにするごろつきたちのようで、アルキメンデスが件の路地裏、――ユーエが暴虐の限りを尽くされていたあたり、に辿り着けば、すぐにいくつもの悪意を持った目が睨めつけてきた。見覚えのある顔もいくつかあったが、そのうち皆同じものに見えてくる。この場にいるということは、即ち悪だ、殺さなければならない。
出てきてくれるほど都合の良いことはない、と思った。ゴミを探して歩き回ることほど、無意味で虚しい事はないのだから――

「……来いよゴミ共、全部まとめて片付けてやる」

彼が剣を抜いたのを合図にして、彼らは数の暴力で襲い掛かってきた。

「――」

数など、どうとでもなる。
歴戦の勇者が遅れを取るわけはなくて、言ってしまえばユーエのほうがよっぽど的確な攻撃をしてくるくらいだ。ひどく冷静な頭はそんなことを考える余裕すらあり、確実な剣閃がひとつ、またひとつ、と数を減らしていく。

「……ああ、」

ふ、と脱力するのは、隙を見せたわけでも何でもないのに、好機だと見て襲いかかってくることの滑稽なことよ、振り抜いた剣がナイフを握っていた相手の手首を深く捉えた。無様な姿を晒しているのには目もくれない、くれてやること自体が惜しい。そんな価値は今目の前にある物に存在しない。武器を持てなくなった男を袈裟がけに斬り捨てた。
剣を振るう度に、ぼろぼろになって剥がれ落ちて行く、

「……復讐かァ?たかが女一人におめでたい頭じゃ――」
「黙れよ」

言葉と共に突き出す。内から溢れる、殺意と憎悪を。

「ゴミにそんなこと言われる筋合いはない」

崩折れる姿に目もくれず、背を向けて歩き出す。
そこにいた全ては殺したのだ、みな悪だった。仕方がない。まずそもそも自分の大切なものに手を出された時点で、許す訳にはいかないのだから。

「……ユーエ、」

仰いだ空の色が、ずいぶんと淀んで見えたのは何故だろう。ひどく足が重くて、戻るのが億劫になる。
剣の血を払って、背負った鞘に剣を収めたら、余計になにかが重くのしかかってくる。剣の重さだけではない何かがずしりと、後を引く。

「……」

部屋に戻るにも、戻ったところで誰も慰めてくれる人はいない。いちばん慰めてほしい彼女は眠ったままだろうし、目覚めたところできっと、いつものように抱きしめてくれはしない。――彼女は目覚めるのだろうか。
このまま目覚めなかったら、何に縋って生きていけばいいのか。普段考えないようなことまで考え始めると、暗い渦にとらわれていく。戻ったところで何になるのか、けれど、戻らなければ、彼女が、ユーエがひとりになる
。 ひとりぼっちで漂っていた、今にも溶けて消えてしまいそうだった彼女を掬い上げて、いろいろなはじめてを教えて奪って、ここまで連れてきたのは自分なのだ。彼女の世界を捨てさせて、ここまで連れてきたのは、他ならぬ自分自身だ。
ユーエが頼れるのは自分しかいないのだ。――思い出す言葉がある。

『わたしの世界からアルがいなくなったら、わたしは死ぬしかないの』

真剣な顔でユーエはそう言っていた。
いなくならないよ、ずっと一緒にいるから、もし一度離れることになったって、絶対に迎えに来るから。彼女が不安を零すたびにそう言って、その言葉通りに成し遂げた。だからこそ今こうして二人で旅をしている。
彼女の世界は、驚くほど狭かった。見るもの見るものにくるくる表情を変えて驚いたり喜んだりするから、それを見ているのが楽しくて、外に連れ出して本当に良かったと思えて――

「……今から、帰るよ、ユーエ」

重い身体を引き摺って、ゆっくりと歩みを進めた。
彼女の隣には自分がいなければならない。彼女を護るために、生かすために。何があっても護ると、誓ったのは、自分だ。


固く閉じられた瞳は冬芽のように、そうであることを祈りながら、芽吹きを静かに待つしかない。深海の色が再び見えるようになるまでは。

「――」

まだだめよ、目は開かない。
もういいかい、手が触れる。
まあだだよ、返す言葉も動きもなしに、彼女は眠り続けている。

「ユーエ」

布団が規則的な上下を繰り返す。
微かな呼吸の音と、時計の針の音しかしない静かな空間が、まっくらく淀んだ泥濘に空虚を刻み込む。何をしてきたのだろう。何のために。どうして。

「……ユーエ、」

起きてくれ。返事をしてくれ。

「ユーエ……!!」

襲い来るのは無力感。彼女を傷つけた奴らを殺して排除したところで、彼女が目覚めるとは限らないのに、それしかできなかった、しようとしなかった自分が憎くてたまらない。
もしこのまま目覚めなかったら、そんなことばかりが頭を埋めて、ひどく焦った。
彼女に頼られていたのは確かだ。それ以上に今、自分が彼女を拠り所にしていたことに今更気づいて、どうしたらいいのか分からなくなる。辛いときに広げられていた両手は動かない。彼女は自分を見てすらいない。今の彼女の狭い世界に、きっと自分は存在すら許されていない。

きっと、襲われた彼女が何もかもを追い出したのだ。
自分を守るために。

「……、……ユーエ、……俺は、……俺は……」

護ると誓ったものに立ち入らせてすらもらえない、悲しみが重くのしかかる。剣を背負っていたときより遥かに重く、何も背負っていないはずの背中を押しつぶす。
その重さに耐えきれなくなって、寝ている彼女の手を取って、指を絡めて強く握った。ほんのりあたたかいその温もりが手にしみてくる。ただ、どこからか溢れた淀んだ感情を押し戻すのには、弱すぎて足りない。そのうちぽろぽろと両の目から溢れ出してきた感情をぶつける先も、どこにもない。
小さな世界に頼り切って、そこから切り離された瞬間呼吸すらままならない。自分は、こんなに弱かったのか、思考し直す暇もない。

「ユーエ……っ、ユーエ、……頼むよ、……はやく、起きてくれよ……」

こんなにも弱々しい声が自分から出るのか、そう驚きたくなるような声が溢れて、苦笑いするしかなかった。
握った手は、彼女が起きた時に驚かないように、そっと離した。



怖いものがたくさん走って追いかけてきていたから、脱兎のごとく逃げ出して、飛び込んだ扉を固く閉めて、なにも、なにも見ないようにする。そうやって対処するのが楽で、それ以上痛い思いも辛い思いもしなくて済んで、余計な体力も使わない。それは小さい頃から知っていて、今回も同じようにしたつもりだった。
何か忘れてきた気がして、扉の向こう側、激しく叩かれる音に怯えながら、呼ぶ。

『アル、どこにいるの』

たいせつなものを、置いてきてしまった気がして。
返事は返ってこなくて、代わりに扉を叩く音が激しくなって、耳をふさいだ。こわくて、こわくてたまらない。外に出たらまた乱暴されてしまうに違いない。そうしようとして誰かがわたしを外に出そうとしているんだ。

『――たすけて、』

どうして今そばにいてくれないのか、

『たすけて、アル……』

どこに行ってしまったのか、自分がひとりになってしまったからいけないのか、それで怒っているのか、

『……ごめんなさい、……ごめんなさい……たすけて……』

ふさぎ込む。
頭を抱えて蹲って目を閉じて、何も見ないことにする。何も聞こえてこないし、何もわたしに触れてこようとしない。
わたしに触れてくる話しかけてくるすべてはこわいもので、わたしはひとりぼっちで、次に目をあけたらきっとへやにひとりでいて、だれもわたしのことは、たすけてくれやしない。 

だってひとりぼっちだもん。いままでそうだったから。
さっきわたしがよんだなまえは、だれなんだろう、わからない……


「……ん、ぅ」
「!」

旅をするようになってから初めて、最高においしくないと思った飯を胃に詰めるように押し込んで、部屋に戻ってきたタイミングでごく微かに聞こえた呻くような声は、希望そのものだった。弾かれたようにユーエが横たわるベッドに駆け寄って、彼女の手を取る。

「ユーエ、」
「……ぅ、……うー……」

薄っすら目が開いて、視線が宙を彷徨った。所在なさげに天井をふらついた視線が横に降りてきて、目が合う。

「ユーエ……!よかった、……心配、したんだぞ、」

ぼんやりしていた目の色が、瞬間的に怯えの色に変わった。

「はなして!」
「――ッ!」

取られた手を強く振り払って、そのままユーエは布団に潜って身を隠す。中からぶつぶつ聞こえる怯えたような声と、振り払われた手に、目眩がした。

「……ユーエ……」

彼女は俺を見てくれない。