サネカズラがゆらめく -1【こわされる】
それは喜ぶべき変化なのか、それともそうなったことを悔やむべきなのかわからない変化であった。
すっかり表情も柔らかくなって、苦手だと言ってはいたけれど、それなりに他人と話ができるようになって、アルキメンデスの後に付き従うユーエは、傍から見て「ちょろそう」に見えるらしい。彼女は歩くのが遅いから、気づくとアルキメンデスとちょっと距離が空いていて、そんな彼女によく虫がまとわりつく。ふっと気づいた時に戻って手を引いて離れるくらいの虫もいれば、しつこく追ってくるようなのもいて、最近どうにも気が気ではなかった。歩くのが遅い上に何かに気を取られるとそっちにすぐ向いてしまうから、よく距離が空くのだ。
「ちぇ、なんだよもう相手いるのか、お幸せに」
「そりゃどうも。行くぞ」
また虫がついた。ぐっと手を引いて引き離して、不機嫌そうな顔で睨めつければ、不思議そうな顔が返される。
「……あのなあユーエ、もう少し警戒心を持ってくれ」
「うえ……? だって、アルが一緒だからへいきよ」
「そういうことじゃない」
大人しそうな見た目で、手入れされるようになったとはいえ無造作に結ばれた長い髪を揺らし、そして何より出るところはしっかり出ている体型は、他の男にも魅力的に映るのかもしれない。
ただその豊満な胸も、実はちょっとだらしないことを知っているお腹も、肉づきが良くやわらかな肢体もなにもかもは、全てもうこの勇者のものなのだ。占有しているのだ。
「とにかく!いいか、俺のそばから離れるな、……この辺あんまり、治安いいってわけでもなさそうだしな」
「……ん、気をつける……いざとなったらわたしだってそれなりに、戦えるんだから、うん、だいじょうぶよ」
何も心配してなさそうな彼女の顔が、アルキメンデスの不安を執拗に煽った。言ってる傍からまた、目の前を掠めていった蜻蛉に気を取られている。
「……はあ」
「?」
ため息ひとつとともに抱き寄せた肩は、女性にしてはがっしりしていて、華奢で折れそうならなおのこと心配が加速したかもしれない。本の外でも中でも、彼女にはそれなりに実績があったから、戦えることを知っていたから、心配しているとは言っても、きっと彼女は大丈夫だろうと思っていた。
「……何でもないよ」
「へんなの」
彼女の手を取って強く握れば、緩慢な動きで指が絡められてくる。小さな手が窮屈そうに、指を動かした。
その手はずっと自分の手の中にあって、決してなくならないと思っていた。ゆるりと名前を呼べば反応があって、手を伸ばせば胸にすっぽりと収まって、求めれば求めるだけ返してくれる。今までそうしてきて、これからもそうだと、心の底から信じていたのだ。――のに、
「――ユーエ?」
この街に滞在して数日、いつものように二人で出掛けて、ユーエが果物を食べたいって言うから、露店に並ぶ果物を二人で眺めて、選んで、帰ったら食べようか、と笑いかけて会計をすませる間に、ふっと彼女の姿が消えていた。
人が行き交う雑踏の中、どこを見てもその薄緑の長い髪は見えない。いつもなら少し探せばすぐ見つかるはずなのに、今日はどこにも見当たらない。
「ユーエ」
呼ぶ声に返事はない。
「ユーエ!?」
買ったばかりの林檎を放り出しそうになって、慌てて手で押さえながら、通りを行く人を掻き分けて、薄緑をどれだけ探しても、その姿は見えなかった。
――どこに、行った?
「……ッ、ユーエ、……ユーエ……?」
先に帰った可能性。いや、いつも先に宿に戻っていいって言ったって、斜め後ろで待っていた。一時でも離れたくないから、そう言うような、帰りはいつも手を繋いで帰る。
何か見つけてふらふら歩いていった可能性。ユーエだって分かっているから、そんな夢中になって自分を置いていくような、そんなことは今まで一度も無かった。常に目の届く範囲内で、自制できていたのは、今まで見てきた自分がよく知っている。
じゃあ、あとは。
「……、……どこ行ったんだ、……」
探すに邪魔な、買いたての果物を置いてから考えることにした。急ぎ足で宿に戻って、剣を背負った。
引きずり込まれた先、待っていたのはいくつもの悪意だ。
「な、なに、なんなの」
袋小路に追い詰められて息を吐く、複数の男が迫ってくる。
会計を待つうち、ふっとよそ見をしたタイミングで男に肩をぶつけられ、謝るよりも早く手を掴まれ、即座に裏路地に引きずり込まれたのがさっき。その男をなんとかいなして逃げようと走るうちに、追い詰められたのが今。手を掴んで来た男は見覚えがあって、この街に来てから何度か声をかけられた気がする。しかもだいぶしつこくて、彼が憤慨していたのが記憶に新しい。
「ちょろいかと思ってたけどなかなかやるじゃんなあ」
「キツいおしおきがいるぜ」
にやつきながら迫る男たちに、身が竦む。恐怖を覚える。一体何をしようというのか、そう思いながら後ずさるうち、背中が壁にぶつかった。
逃げられない。どうしようもない!
「ッ!!」
それを合図にしたかのように、男たちの手が伸びてくる。
「さっ、わ、るな!!離せ!!」
不快な笑い声、耳に入れたくない猥談、目に入れたくないそれ、あらゆる事象からもはや逃げ出すことは難しい。
強引に引きずり倒されて地面に頬を摺り、上皮組織が削れて痛んだ。
「あ、ある、……っぐぅ!?」
たすけて、そう言葉を発する前に背中を踏まれて肺が圧迫される。息ができない。そもそもこの薄暗い路地裏で助けを求めて声を張り上げたところで届くのか、そう脳裏をよぎった瞬間に何もかもが恐ろしくなる。自分は一体どうなってしまうんだ。何をされてしまうんだ。
きっと今自分が恐怖を覚えて彼らを見つめた姿は、なによりも彼らを、煽っている。
「いい顔してんじゃねえか」
「アーハハハこりゃ楽しみだなあ!!3日抜いてないから溜まってんだ」
「おめえちょっと性欲強すぎなんじゃないのかー」
早く、助けてほしい、そう声を張り上げたくても、もはや呼吸すらままならない。
歪んだ笑顔が複数向けられて、それから服に手がかかった。
辱めの限りを。
ごめんなさい、もっと近くで、離れないようにしていればよかっ あ
ごめんなさい ゆるして
ゆるして ある、わたしをゆるして、
強く保っていた心も、あるとき不意に限界が来た。
ごめんなさい
いい に てるか
ゆる て、ゆ て
あ ああ
あとはなにもおぼえていない。
見つけられずに無慈悲に時間が過ぎていく、それと同時にどうしようもない焦燥ばかり沸いて出てきては燻って、からっぽの心を焼く。
露店の主人も完全にアルキメンデスしか見ていなかったから分からないと言うし、宿に戻っても彼女は戻ってくることはなく、寝る間を惜しんで夜の街に繰り出して探して回っても、彼女の姿は見えなかった。
想起させられる。考えないようにしていても脳裏を過る最悪の結末、次に抱いた時には温もりが失われていないことだけを、祈る。
二度と繰り返さないと誓って、誰かを愛することから諦めた、またもしそんなことが起こりでもしたら、二度目はもう、耐えられる自信がない。それくらい彼女を愛している。今一番怖いことを聞かれたら、答えるかどうかは置いといて、答えは決まっている。
寝る間も惜しんで歩き回る昼でも薄暗い裏路地に、ふと見つけたものがあった。
「!」
ユーエがしていたブレスレットが落ちていた。ここに来る前の街で、気に入ったから、と買っていたブレスレットだ。青い石がアルの目の色そっくりよ、なんて笑っていたのが思い出される。
注意深くあたりを見渡せば、不自然に摺れた跡がいくつか見受けられて、それから鼻をついてくる生臭いにおいがある。
怒りがゆらりと沸き立った。
足跡が続いている。
剣を抜いた。
駆け出す。
話し声と笑い声が聞こえてくる。女がどうこうとか、なんとか、――まさか、
「そろそろ次の女ァ探してもいいかもなあ……!」
「!! 誰か来るぞ!」
「おいふざけんな俺は今いいとこなんだ」
角を曲がる。
目に飛び込んでくる、
「――ぁ?」
限りなく蹂躙されて汚された薄緑が目に入って、立ち竦むことしかできなかった。
ずらかれ、逃げろ、と声がして、途端にすっと冷静になる。今ここにいるのは、皆悪だ、大切なものを蹂躙して汚した悪だ、――殺さねば。
逃げようとして乱暴に彼女の身体を放り投げた男をまず一突きして動きを封じてから、蜘蛛の子を散らすように逃げ行く男たちのうちひとりに追いついて、足払いをかける。
「な、なんだてめえ、」
「――お前らこそ、ひとのモノに手ぇ出しやがって、何なんだ」
心臓を一突き、なにか言いたげだったような男だったものを蹴り飛ばし、もうひとりを射程圏内に捉えて剣を振る。背を切られて苦悶の呻きをあげた背後から一閃、
「ゴミはゴミらしく、地面に這い蹲っていろ」
言葉はきっと届かない。倒れ臥す男に目もくれず、残りのゴミの追跡は諦めて、許し難い行為をしてくれた最初の男を見やる。なんとか這ってでも逃げようとしているその根性だけは認めてやってもいいかもしれないと思いつつ、わざと急所を外して、その太腿を貫く。
「がっ、あ」
「答えろ。お前らは何だ、何人居る」
感情の籠もらない声と、剣の威嚇は最大限に効力を発揮したらしく、恐れを為した男が、まるで希望に縋るように、べらべらと話し出す。話し切れば逃げられるとでも思っているのだろう、おめでたい頭だ。
そんな程度の人間がいる集団などたかが知れているのは、今までの経験則で知っている。全て逃さない。悪は滅されるべき存在である。でなければまた、悲しみを生むだけだ。――殺せ!
「それはどうも」
「お、俺ァ、何も知らなかったんだよお、俺だって脅されて――」
「……そうか、」
言葉の続きは紡がれない。
代わりに鋭く突き出された切っ先が男の胸を穿ち、その身体は地に伏した。そこに慈悲はない。
「――クソッ、……!!」
絶対に許さない、取り逃がした大多数が消えていった路地の奥を睨め付け、後悔と憎悪が渦巻く中、微かな声が、アルキメンデスの意識を現実に引き戻した。
聞き覚えのある声は、今にも潰えそうな弱々しさで、呻く。
「あ、る、……」
「!!」
確かに名前を呼ばれた。ぐったりした様子の彼女に駆け寄って抱き起こせば、うつろな目がこちらを見てきた。
生きている。まだ彼女は暖かい。そう安堵した刹那に、怯えきった深海の色の瞳が見開かれて、身を捩った。抱き起こした腕から逃れるように。
「ユーエ……!!よかっ、た、無事で、……ッ!」
「……い、いや、……いやだ、……はな、して、……離せ、……っ、う、ぐ」
それは確かな拒絶だった。
そんな体力なんて残っていないんだろうけれど、それでもユーエは、アルキメンデスの腕から逃れようとする。そのたびに何かが深く突き刺さってくるような錯覚を覚えて、吐き気がした。
焦点の合わないうつろな目が空を見て、うわ言のように零した。
「ある、……たす、けて、……、ごめん、なさい、……たすけて……」
無力感。それから絶望感。
「……ユーエ……? 俺、だよ?アルは、……アルキメンデスは、俺だよ、……ユーエ……」
するべきことが全部頭から飛んでいって抜け落ちて、ただ呆然と、腕の中でぐったりする彼女を見つめることしかできない。
ここではないどこかを見つめる彼女が、ふつりとその意識を手放して両腕に彼女の重さがかかるまで、いや、かかってからも、何をしていいのか分からなくてその場から動けなかった。
初めて出会ったその日に向けられていた、あの警戒の視線よりも鋭く冷たく無慈悲なそれは、勇者の心を抉るのには十分すぎた。
「……ユーエ、……どう、して……」
今まで積み上げてきたものが、崩れ落ちていく音がする。