サネカズラがゆらめく -7【たびにでる】

地図を広げて次の目的地を検討する間、ユーエは黙々と荷物をまとめていた。

「……わたし、こんな服持ってたっけ」

纏めながらふとそんなことを零したのでそちらを見遣ると、地味な色のTシャツが数枚ベッドの上に並べられていた。彼女が閉じこもっていた頃に買ってきてやったものだ。

「ああ、それ俺が買ったやつだ、ユーエがそういうのがいいって言うから」
「わたしそんなこと言ったの……、ぜんぜん、覚えてないわ」
「無理もないよ」

優しく腕が絡められてくる。さっきから何か言葉を交わすたびにこうやって鼻先を突き合わせたり、頬を擦り寄せたりで、全く荷造りが進まない。
持ってたはずのスカートがないだとか、ブレスレットがどっか行っただとか、該当するものがだいたいあの日着ていたり身に着けていたりしたもので、なんと言ったらいいのやら。

「……また、新しく買えばいいだろ。荷造り終わったら見に行こう、買ってやるよ」
「気に入ってたのにー……」

つんと口を尖らせたところにそっと唇を当てに行けば、その柔らかな感触にふっと微笑んでくる。
もう、ほとんどすっかり元の彼女に近いところまで戻ってきていて、手をつなぐのも、抱き寄せるのも、キスするのも抵抗しない。一線を乗り越えた瞬間にやたらとくっついてくるようになったのは、本当に出会ってすぐのあのころを彷彿とさせて、懐かしくなった。
けれどもう、二度とはごめんだ。

「わたしワンピースが欲しい、白っぽいやつでそれでふわってするの」
「んーそうか、それは分かったから早く荷造りしてくれ」
「手伝ってくれてもいいのに」

ぷ、と頬を膨らせながら広げた服を畳む彼女には、怯えの色も絶望の色もどこにもない。きっともう求めれば求めるだけ応じてくれるし愛してくれるのだろう、それでもなんだか、そうするのが恐ろしく感じられるのは何故だ。
高い可逆性を以ってして、彼女は颯爽と舞い戻ってきた。恐ろしく壊れやすいくせにそうやって戻って来るのは、本当に強いと思う。
深く沈んだら、とてもとても浮き上がって来ようとは、思えないから。

「あーる」
「何だ」
「終わった!」

纏めた荷物は割とコンパクトで、ひょいとアルキメンデスが荷物を持ってしまえば、空いた腕にすぐ、ユーエが腕を絡めてくる。そのまま自然な流れで指を絡めて恋人繋ぎ、確かに離れるなとは言ったけれど。歩きにくい。
言ってしまった以上どうもできないが、ひとつため息をこぼして部屋を出ようとすれば、ぐいと手を引っ張られて引き戻された。

「なんだユーエ、もう出るぞ」
「知ってる」
「じゃあ何だ……、ん」

半開きになった部屋のドアの影で、ユーエは静かに彼の唇を奪っていく。ごくわずか、触れる程度のキスがなんだか気に食わなくて、返しのキスは深く長く。
それだけでほわんと蕩けた顔のユーエの頬を小突いて、改めてドアを開ける。

「続きは後でな」
「もう、なんなのね」

ドアを閉める。
今まであったあらゆる悪いことを置いて。荷物に詰めたのは、それから積み上げてきたいいこと。


裾から青くグラデーションのかかった白いワンピースに袖を通したユーエが、サンダルで砂を蹴飛ばして、砂浜を走っていく。
買いたてのワンピースの裾と長い髪をなびかせて、砂を蹴り上げていた足が止まる。スカートの裾が砂浜につかないようにまとめて持ってから、すとんと砂浜にしゃがみ込んだ。

「どうしたー」
「かに……」

死んでた、と立ちあがって、今度はゆっくり、足元を見ながら歩いていく。
確かに目の前を歩いている彼女は、大人のそれである気がしたのだけど、なぜか無性に落ち着かなくなって、荷物を放り投げて、白いワンピースの彼女に駆け寄って、後ろから抱き締めた。確かめるように、力を込める。

「……アル?どうしたのね」
「んー」

何でもないよ、と囁いて、二人しかいない砂浜の上、そっと頬を擦り寄せる。やわらかなユーエの頬が不意にぷっと膨らんで、それをぐっと押し付けてきた。
何をするでもなく二人で頬を寄せ合って、ぼんやりと海を眺めた。海風がスカートの裾を揺らして、二人の間を通り抜ける。

「ユーエは海好きだな」
「好きよ、だいすき」

ふわりと広がったスカートを押さえながら、ユーエはにこにこと笑っている。

「何で、海好きなんだ」
「んー」

じい、と眺めた海の先、水平線がどこまでも広がる。穏やかに寄せては引く波が砕けて飛沫をちらしてサンダルとブーツを濡らす。
しばらくそうしていたら突然に、ユーエが砂浜を蹴って、アルキメンデスの腕から離れて、ばしゃばしゃと海に入っていく。

「ユーエ」

その様に何故か不安を覚えて呼び止めた声に、彼女はすぐにくるりと振り向いて、ぱっと笑ってみせてきた。
一抹の不安を弾き飛ばすような満開の笑み。

「だいじょうぶね!わたしはどこにも行かないわ!」

波が寄せる。引く。
その姿を見ているうちに自分も飛び込みたくなって、アルキメンデスはいつものブーツを脱ぎ捨てる。ブーツを放り捨てたタイミング、波が寄せる。引いた。足元をとられたユーエが、実に間抜けな顔のままぐらりとよろけた。

「あ」
「ユーエ!!」

砂を蹴飛ばしてすっ飛んでいって、ユーエの手を掴んで引いたが、助け起こすのは間に合わない。手を引くどころか逆にユーエに引っ張られるような形で、二人揃って海に沈んだ。
白いワンピースが海水に濡れて、広がったスカートが花弁のようにゆらゆらと揺れている。
心配の目を向ける間もなく、くつくつと笑い声が聞こえてきた。

「あっは、は、あははは」
「大丈夫かユーエ、風邪引く前に着替えないと――」

水が跳ね跳ぶ。掬い上げられた海水がアルキメンデスの顔に直撃し、目に沁みてくる。
ユーエがけらけらと笑っている。目の前の彼女が水を飛ばしてきたのは、何よりも明らかだった。子供みたいに笑う彼女の顔が目に焼き付く、それはかつて雪遊びをしたときのような。

「ユーエお前……! やったなこの野郎!」
「やだあやめてよお、あっははは!!」

ば、と跳ね上げた海水がユーエの髪の毛を濡らし、楽しそうな声がそこかしこに転がって弾ける。
大人気ない声を零してざばざばと水を跳ね飛ばして、水と黄色い声がそこいらに飛び交う。子供心に帰って相手が妻なのも忘れて、大騒ぎする。

「ああくっそ!ユーエてめえ」
「へへ、これで!どうだー!!」
「うおっ!?」

渾身の体当たりを仕掛けてきたユーエの突撃をもろに受けて、ばしゃん、と尻餅をつく。もう互いに服も髪もびしょ濡れで、我に返れば何をしているんだろうとすら思う。
目の前のユーエは実に楽しそうにからころ笑っているから、そんなことは、どうでもよくて。

「ああ、もう、何なんだよ……はは、っははは」
「ふへへー……だって、だってね、楽しかったから……」

海でこうやって遊ぶのなんて初めてなのよ、と笑っていうユーエは、濡れているのを差し置いても、魅力的で可愛い。彼女の隙間をまたひとつ埋めたのが嬉しくなって、そっと抱き寄せた。
張り付いてくる服も髪も意に介さないで、静かに。

「どうしたの?」
「何でもないよ」
「あ、そう言えばね、あのね、わたしが海が好きなのはね」

海の匂い。潮の匂いとユーエの匂いがないまぜになって、鼻をくすぐってこそばゆい。
海のもっと深いところの色の瞳が、ゆらゆらと揺れている。

「いろんないきものがいておもしろいから、よ、いのちの始まりの海」

死んでない海はどこの世界も同じようにきれいで、自分でもわかるから、だから好き、そう語って不意にアルキメンデスの頬に触れてもう一言、

「あと、アルの目の色だからよ」
「そうか」

海の色ともっと深いところの色がすっと交錯して、どちらから言うでもなく、そっと唇を重ね合う。
海に半身を沈めているのも、服も髪もぐっしょり濡れているのも忘れて、しずかに見つめあって、それだけで時間が溶けていく。

「愛してる、ユーエ」
「うん、わたしもよ、アル、だいすき」

確認するような言葉の応酬、

「もう、絶対に俺から離れるな」

縛り付ける言葉。残酷さと安心感を揃えた言葉がユーエを縛って、動けなくなる。動こうとも思わない。守ってくれるのなら、いや、そばにいてくれるのなら、それで構わない。ずっとそばにいれるのなら、それは厭わない。それしか望んでいないし、それが満たされるのなら満足なのだから。
――死ぬまで共に。

「……うん。ぜったい、どこにも行かないわ、アルのそばにいる、ずっと」
「死ぬまでずっとだ」
「やだ、死んでからだって一緒ね」

キスをひとつ、ふたつ、それからようやく立ちあがって、アルキメンデスはひょいとユーエを抱き上げた。
ぼたぼたと海水をしたたらせるワンピースの裾をそのままにして、ユーエはぽかんとした顔でいる。

「すっかりびしょ濡れだよ、着替えよう。着替えてからだな、行くところ考えるの」
「ん、うん」

ざばざば水を割って歩いていく間も、確かに腕の中、彼女がいる感覚がある。なんと幸せなことだろうか、もう絶対に手放さない。腕にかかる重さは水が足されているけれども、確かすぎるくらいの存在の証明。触れればほんのり温かく、やわらかなぬくもりを持った愛しい人。
深い藍色の、深海の色がゆらりと揺れて、見た先の海は綺麗な青。つい、と視線を戻して見つめてきた瞳を見返せば、にこりと笑って口を開いた。

「アルの青がいちばん好き」
「そうか」

流れる薄緑が一番好きな薄緑だ、揺れる藍色が一番好きな藍色だ。言葉で伝える代わりに口づけをひとつ、再生して舞い戻った彼女の頬が真葛の実のごとく色づく。
理由はすぐに分かった。ふたりきりだった砂浜に、地元の子供たちだろうか、こちらを見ている視線がいくつかあった。

「恥ずかしいのか」
「そ、それは、そうよ、ああもう」

からかうような声がする。
真っ赤になって縮こまるユーエをよそに、アルキメンデスは大きく声をあげた。

「ユーエはかわいいなあー!めちゃくちゃかわいい!!俺の嫁さんめちゃくちゃかわいいだろ!!」
「あああああ!!」

風が吹き抜ける。笑い声を運んで飛んでいく。
風に煽られて揺らめく薄緑の髪の毛、真葛の実のごとく色づいた頬の彼女が困ったように笑っていた。



9/15の誕生花 サネカズラ
花言葉は「再会」