空と深海のインタールード -1

世界が作り直されるらしい。
ユーエにはあまり関係無かったけれど、今までも少しばかり、カミサマが手を下して強くなっただの弱くなっただの、そういう会話は耳に届いていた。今回は本当にぜんぶまるっと作り直しで、今まで手に入れてきた力も、ぜんぶなくして最初から。そういう、世界の作り直し。
彼はまるでなんてことのないように語るけど、ユーエにとってはとにかく未知の体験で、どうしようもなく怖かった。もし、もしここで別れが訪れたら。もしここで彼の手を離すようなことになったら。やりたいことはまだまだたくさんあって、してあげたいことも山積みで、そしてそれらは何一つまだ達成されていないのに。

「……世界が、ふふん?つまり実質終わりを迎えるってわけか、しかも初めてではない、か。私らのところに負けず劣らずの不安定なところなんだね」

アルムは相変わらず物分りが良くて、そう言うとゆるゆると伸びをしながら、ユーエの方を見る。
空の色が真っすぐに深海の色を見据えて、その視線の強さに目を背けたくなる。

「ユーエは、どうやってここに来たかわかる?」
「……わかんない」

姉がそう聞いてくるのなら、姉も分からないのだろう。困ったような視線が2つ交錯して、苦笑いが宿の部屋に満ちる。

「じゃあ、どうなるかわかんないか」
「……うええ……」
「大丈夫だって、なるようになるよ」

あなたがそうやって呻くのは、離れたくないからでしょう?と見抜いた空色から気まずげに目を逸らせば、髪の毛を強く引っ張られて差し戻される。痛い。
それを主張しに来たんじゃなくて、もっと覚悟を決めたことを言いたくて来たのに。たしかに、それも、あるけど!

「うええ、うん……あ、あのね、お姉ちゃん、」

決意を込めて、見つめる深海の色。


「わたしハンターやめる」


妹がそう言ってくるのは、想定の範囲内だった。
危険な仕事を続けている意味は、ない。命を捨てるようなことはもうできない。妹は勇者に縛られている。

「そう、じゃあお姉ちゃんのとこでも来る?」
「え、」

妹の目が丸くなる。仕事をやめる、と言っておいて、何も考えていなかったのだろうか。それともどうにかなるとでも思っていたのだろうか、考えが甘い。
職権を乱用せずとも、妹の持ちうる能力であれば十分助手として採用できるだろうと、アルムは思っていた。妹が生物に興味があって、それだけは独学で学んでいたことに感謝するしかない。それに加えて研究所のインドア研究者たちは持ち合わせていない、外を歩く能力と体力が妹にはある。それでもう十分なくらいだ。

「だってあんた、ハンターやめたら仕事なくなるでしょ?お姉ちゃんとこの助手くらいならたぶん行けるわ」
「え、あ、でも」
「生物はそれなりにできるんでしょいけるいける」

あんた何も考えてなかったの?と強い語調で言うと、ユーエの藍色の瞳はすっと逸れていった。案の定だった。どうするつもりだったのだろう。
それよりかは、自分にちゃんとそれを伝えてくれたことのほうが、嬉しい。帰ってからのたれ死なれるよりは、マシだった。

「……うん、じゃあ、うん」
「決まりね」

二人の実家のあの家をどうするかとか、いろいろ決めなければいけないことはたくさんある。それは全部無事に戻れてからだ。
それをどうのこうのすることを、帰ってからの確定事項にして、アルムは自分の連絡先と元の世界での住所と、そこまでの行き方をさらさらとメモし出す。

「……遠いんだっけ」
「急いで2日だから……、もし来ることになったら急いでいいわよ、お姉ちゃんの名前で後で払うって言えば割と何とかなる」

一番いいのは同じところに戻ることなんだけど、そううまく行くかな、と姉は笑う。
でも何となくそれがうまく行きそうな気がして、妹も釣られてゆらゆら笑った。

「……あ、そう言えばね、お姉ちゃん」
「なあに?」
「結婚式、やるって、土曜に」

恥ずかしそうに笑うユーエは、随分と綺麗に見えた。


尋常でない眠気とだるさは、確かにあの日、研究室で感じたそれと同じだった。世界から引き剥がされていく感覚とでも言えばいいのか、指先に力が入らない。
宿で静かにその感覚に身を任せ、今頃一時とは言え別れを惜しんでいるのだろう妹のことを思う。妹も同じように、こんな感覚に苛まれているのだろうか。ひとりじゃきっと不安だろう、託せる人がいて、よかった。

「……あー、うーん」

戻ったらしなきゃいけないこと。
ユーエの住んでいる家の処置と、彼女の荷物のまとめと、自分が意図せずして放り出してしまったもろもろの対処。それから妹を最悪職権を駆使して研究所の所属にすること。ちょっと身内の、研究所の誰かの手を借りないと、全部ひとりでやるのはしんどいかもしれない。研究所も年度始めで、新しい学生を迎えたりだの何だので忙しい。けど、それよりか妹のほうが大事だ。

世界から緩やかに引き剥がされていく。
目を閉じて、あとは世界に任せてしまおう、意識はすぐに手放された。

世界が終わる。
引き剥がされた姉妹は、或るべきところへ、


「――!」


はっと目を開けると、見慣れた光景が広がっていた。
アルムが働いている研究所の、自分の研究室。その椅子の上。

「……あ、あー……」

帰ってきた。帰ってこれたんだ。自分の世界に。

「ん、ううえ……」
「……ユーエ? ユーエ!?」

自分以外の声がしてアルムが勢い良く振り返ると、来客用のテーブルに突っ伏すようにして妹がそこにいた。思わず声が上がる。
お姉ちゃん、と呼ぶ声も、そこに存在している姿も、間違いなく本の中で確認したそれだった。大事そうに古びた本を抱えていることを除けば。

「ああ、よかった……、よかった、ユーエ、ひとりにならなくて、よかった」
「お姉ちゃん……、だいじょうぶなのね、わたしは」

私が心配なんだよ、という姉は、すっと立ち上がると、ちょっと待ってて、と言い残して部屋を出ていった。どうやらここは、アルムの仕事場らしい。
そして、自分が胸元に大事に抱えていた本が、あの世界に続く鍵だというのはすぐにわかった。完全に繋がりが絶たれたわけではないことを理解して、ユーエはひどく安心した。自分の大事な人は、きっとまだこの本によって導かれる世界の中にいる。またこの世界に入れれば、間違いなく会える。そんな確信があった。即ちこの本が彼だ、と思うと、本ですら急速に愛しくなる。
恐る恐る開いた本は、途中のページまで文字が刻まれていたが、途中からは白紙になっていた。

「ユーエ、今すぐ出掛けるわよ。家に帰っていろいろやらなきゃいけないわ」

姉の声にはっとした。
ここは自分がいた国ではない。帰らなければ。帰って、やらなきゃいけないことがある。それをやっている間にきっと、また本の世界に飛び込めるようにはなっているはずだ。

「い、いますぐ?」
「早いほうがいいでしょ?いつ行けるようになるかもわからないんだし、行けるようになったらすぐにだって行きたいでしょう」

空は何でもお見通しだって、そう言わんばかりの言葉が降ってくる。姉の行動力に甘えるしかなかった。


姉妹二人にエルキャンベル家の三人を加えた五人で、即座に移動を始めた。1番早いルートを取って、それでも2日。物語はいつまた開くのか分からないが、とにかく早いほうがいいだろうと。幸いにして咲良乃研に来る学生は4月初めからすぐ来るというわけではなかったことと、エルキャンベルの兄妹が全員揃っていたことで、人手はなんとか足りるだろうラインに達した。ユーエは計上されていないが。
そして今、アルムにとっては実に約20年ぶりの、ユーエにとっては2ヶ月振りの実家で、リーリオは棚をばらしていた。

「それこっちね、ああそれはいらないわ捨てろ捨てろ」
「アルムさん!細かいの入れる箱なんかないですか」

非力を自称するアルム(実際、海水の入ったタンクを運ぶのに苦戦しているのは見たことがあるけど)と、あまり身体が強いとは言えないフレサが細々としたものを箱に詰めている間、うっかり運動部になんか入っていたせいで体格のいいリーリオと、その気になれば魔法で自己強化を掛けられるリーリオの弟のメリー(――は、本名ではないんだけども)で、重いものや家具を運び出したりしていた。
ユーエとその母親が二人で暮らしている間、使われていなかった部屋には埃が随分と溜まっていたし、彼女が一人になってからはなおのことそうで、埃の溜まっていない部屋が彼女の活動範囲だったろうことがすぐにわかった。
アルムは時折発掘される幼い頃のユーエの写真や書いたものを見つける度に手が止まるし、一緒に作業をしているフレサもそんな様子なので実に進みが悪い。仕方ないとは思うのだけど。

「……兄ちゃん、あいつらなんで仕事しないんだ」
「ああ、メリー、無理もない。20年を埋めるっていうのはそういうことだ」

アルムは、明るく振る舞うことができる人だ。それは大学生活を共にして、よくわかっていた。今フレサに明るい声で何事か話しているようだけど、内心はきっと穏やかでないのだろう。
正義感も強かったし(とはいえかなり独特だったけども)、きっと妹が受けていた仕打ちが許せなくて、何もできなかった自分も許せなくている、それが手に取るようにわかった。リーリオには、そう見えていた。

「というかユーエさんは」
「彼女なら仕事場ですよ、辞める手続きとかその辺をしに」

それがあるから、始めからユーエは頭数に入れていない。そうでなくても、あまり体調がいいようには見えなかった。

「ユーエさんが居りゃもうちょい早く進むと思うんだけど……」
「ユーエああ見えてアルムより力無いですよ」
「えっ」

別の部屋から、アルムの男手二人を呼ぶ声がする。
メリーの不服そうな顔もリーリオの呆れた顔も塗りつぶしてなかったことにして、エルキャンベルの男二人は作業に集中することにした。


実に2ヶ月、そう、どうやら本の中で過ごした時間と同じ時間が経っていたらしい、それだけ顔を出さずにいてはなんて言われたものか、と恐る恐る所属する組合の寄合所のドアを叩けば、飛んできたのは安堵の声と歓迎の声だった。もともと1週間くらいなら顔を出さないことが何度もあったけれど、さすがにこう長い間顔を出さないのは初めてで、心配したけど元気そうで何よりだ、と。誰も彼もがそう言った。
ひとりじゃなかったんだ、ということを実感して、やんわりと胸が締め付けられた。ひとりだと思っていたのは自分だけだったのかもしれない。

「マスターさん、えっと、話が、あります」
「ん。オルティナリスには退いてもらったほうがいいか、咲良乃」
「……いえ、平気です。今話します」

7年前に自分を迎え入れてくれた人に、言わなければならない。大部屋の奥の、簡素な机の向こうの歴戦の女狩人。名前は知らない、ただこの組合の誰もが、マスターと呼ぶ人。
その傍らにいたのは、よく一緒に依頼に行っていた戦斧使いだった。――彼女になら、別に知られてもいいなと思って、理由も何も全部。

「……ハンター、辞めます。信じてもらえないかもしれないんですけど、ここに来なかった2ヶ月くらいの間、わたしは別の世界にいました、……もう、死ぬわけにも、怪我をするわけにもいかなくなったので、辞めます」

今思えば相方みたいなものだったのかもしれない彼女が、隣で面食らった顔をしていた。

「そうか。では書類を準備させるから、少し待っていてくれないか。何ならオルティナリス、詳しいことを聞いていてもいいぞ」
「あっ、ハイ、……2階借りていいですか!あとコーヒーメーカーと、お砂糖!」
「好きにしな。使ってもらうために置いている」

じゃあ行こうユーエ、と歩き出す相方の後ろでやんわりと微笑んで、ユーエは安堵のため息をひとつ零す。姿が見えなくなったあと、もうひとつの安堵のため息の出元は、椅子に深く腰掛けて頭を掻いた。

「……盛大に祝ってやったほうがいい事案かなとも思ったが、咲良乃はそういうことは好かないか」

左手の薬指の指輪の意味を、知らないわけがなかった。
くつくつと笑った脳裏に、ユーエを迎え入れた頃の記憶が蘇ってくる。世界に、何もかもに、絶望しきって澱んでいた藍色の目は、いつの間にやら綺麗に輝くようになっていた。
詳しいことは、きっと相方が聞き出してくれる。

20140415
そらとふかみのいんたーるーど、と読みます。Interludeは幕間。
つまり空色の目の姉と深海色の目の妹の、戯書と戯書の間の幕間です。
ユーエが2期→3期でがらりと服装を変えたり、3期のサブがアルムからリーリオになってたりするあたりをいろいろとあれしたかった。