ヘリオドールが山に行く道すがらに、薄い本を手にした生き物がいた。
そも、ぱっと見では生き物と言えるかすらも怪しいような出で立ちであった。何かの生き物の頭骨(――おそらくは爬虫類のそれであったが、角が生えていたのでドラゴンとかそのへんなのかもしれない)を被り、顎骨を首にかけ、そしてひらひらと揺れているのは昏い色の布だ。それはどこまでいっても不気味としか言いようがなく、ヘリオドール自身も思わず顔をしかめるレベルであった。
何よりそのいきものは、恐ろしいほどすぐに触角でよく分かる、『おなじいきもの』だったのであるが。
「観測者に追いかけられていたクソガキじゃないか」
「誰がクソガキだ。お前こそ何だ」
視線こそ遣りはした。けれどとっとと離れようと思っていたのに、声をかけられて足踏みする。
頭骨の下、ちょうど眼窩の下辺りからゆらりと覗いた光が(恐らくそこに瞳があるのだろう)揺れて、ふっと消えて、また瞬いた。
「よせ。お前のようなひよっこ、私の手にかかれば一捻りよ」
「……うるさいな。質問に答えろ」
「おお、おっかないことを言ってくれる」
はたと気づく。
目の前にいる姿はひとつなのに、目の前から感じられる気配は無数にあった。
「私は瑠璃のラズライト、みな大抵にして移動する墓場と呼ぶが」
「……そのやたらめったらたくさんいる気配は、」
「敏いじゃないか。これはみな死者だ」
ぶわ、と風もないのに広がった布の下には何もない。ように、見えた。
そこには確かに無数の気配が存在して、布の下から一斉に視線が飛んでくる。悪趣味だと思って顔をしかめれば、笑い飛ばすような声さえ聞こえた。
「お前は今墓場の前にいるんだよ。当然だろう」
「ああそうかい。墓場は墓場らしく留まっておとなしくしてろよ」
今にでも飛び去りそうなヘリオドールの背に呼びかける声は、実に楽しげだった。
昏い色の布の下からちらりと見えたのは名前通りの綺麗な藍の色で、それが墓場をしているというのは実に惜しい綺麗な色だ。
「血の気が多くて楽しいことだ……、……つとに咲良乃姓に関わるいきものは面白いね」
「なぜそれを」
「私の立ち位置はあの観測者共に近いよ、ヘリオドール。墓場という役職のおかげで多少なりとも特別扱いを受けている」
睨みつけてくるのも笑い飛ばして、瑠璃の墓場のどこを見ているかすら分からない顔が、すっとヘリオドールに寄る。
怯むことも拒むこともせず真っ直ぐに見返してやれば、感嘆の息が聞こえた。
「いい根性だ」
「そりゃどうも。僕の前身はどうしようもなく臆病だったようでね」
「それを知っている……いや、知らされてなおそうやっていられる無性生殖もまた珍しい。評価しよう」
よく知る気配がそこにある気がした。けれど確かめることはままならない。
ラズライトの纏う昏い布の下からすっと差し出されてきたのはハードカバーの薄い本で、薄い本の割に随分と厳重に封をされたそれからは、なんとなくシナモンと黴の混じったようなにおいがする。
「評価するついでにね」
「それは?」
「一般的な生死の概念からは外れた存在、正確に言えばそれの一部を切り取った物語さ。物語と便宜上呼んでこそいるが、そう呼称するのにはちょっと例外に過ぎたものだが」
ざわりと背筋が総毛立つ。
ついぞ先ほど、深緑の獣が吐き出した言葉を思い出す。
「そんなぺらっぺらのなりしてか」
「これは異本だ。タワムレガキ、という本の世界で作られた……読み手が創りだした、停滞した物語とはまた異なる本だ……紡ぎ糸を少しずつ手繰っては読む、要は読み手が好き勝手できる本だ。紡ぎ手として」
このメルンテーゼには、随分古いものではあるが、戯書それ自体が存在しているよ、とも告げて、ラズライトはもう一冊同じような本を出す。
タイトルすら読めない黴臭い方に比べて随分と綺麗で、そのくせこちらは煙草臭いように思う。淡い色使いの表紙に目が行った。――『鈴のなる夢』。
「哀れな男の話だよ。哀れかな?君がどう思うかは知らないが」
「それを何故僕にわざわざ見せてくる?お前は何がしたい?」
頭骨の下に隠れて見えないはずの口元が、笑みを浮かべているような気がする。
不気味だった。けれどかと言って、どこかへ行ってしまうのは惜しかった。
「リラ・アスターの飼い犬、……いや犬というには無理があるか。飼いエオクローナ……しっくり来ないな。まあどうでもいいや無関係だ、ヘリオドール・アスター。彼女がこの物語に、何らかの形で救いを求めているとしたら?」
「……は?」
疑惑が確信へと移行していく。
「じゃあ、つまりは。けれども思うに、少々できすぎてやいないか」
「そう言ったところで君にできることは、実はひとつしかないんだよ」
ただ、それを問い詰めるような暇は、欠片も与えてくれやしなかった。
矢継ぎ早に言葉を紡ぐラズライトに気圧される。
「これを持ってエーオシャフトの外に行き、そしてどこかへ放ってくる。それだけなんだよ……私が偶然落として無くした本を拾ってそのまま別の世界に行った、それだけでいいのさ」
「……。……エオクローナは、基本的にエーオシャフトの中では居場所を把握しあう生き物ではなかったのか。今こうしてお前と話していることも、他に筒抜けではないのか」
「配慮をありがとう。今の私はエオクローナである以前にひとつの世界としての色を強くしているから、観測者どもですら分からんよ。グランフラージュ様は違うかもしれないが、あれは私達には基本不干渉だ」
封をしていたそれと、されてない方をばさりと地面に落としてラズライトは笑う。
ぱらぱらと捲れていく『鈴のなる夢』の中身は、どこまでも淡い色使いで統一されていた。開かれたページに人間の姿はない代わりに、青い尻尾が見える。
「……ふん。知らないぞ」
「おお、それで結構だ、おっとそれと……、ティブロス・セキュアルというところに、願いを叶える塔があるという話だよ?君の願いを叶えたければ行ってみるのも手じゃないかな。それとこの世界の戯書の在処はとある森の奥の村だ……、トリアルス村とか言ったかな、勇者の築いた村。以上をその厄介をどこかに放る仕事の対価として提供しよう。」
拾い上げた本を両手で抱えたヘリオドールは、そのままぱっと羽を広げると、山登りを再開する。
ラズライトはただそれを眺めて、いや眺めもせずに、ひゅう、とひとつ口笛を鳴らした。
『ヘリオ、ありがとう』
はっと振り返った夜色の視界の端に、銀色が映り込んだような気がした。
「……。悪趣味な野郎だ。どうなっても知らないからな」
名残惜しくない、といえば嘘になる。ただ、与えられた目的を遂行するために、ひとまずはこの一揆とやらの収束を見届けてもいい気はしている。急げとは言われていないし、急ぎであればそう言うはずだ。
ふ、と息を吐いて、一気に山を登っていった。
「……勇者の?築いた村?」
前に聞いたことがあるようなないような、朧気な記憶を辿れば、誇らしげに伝承を語る青いスライムが脳裏を過る。
それにしてもできすぎている。何もかもを仕組まれているのではないかと疑うような、一体何をしたいのか、それだけが。疑問としてこびりつく。
「(僕らはそういう生き物だ、と割り切るしかないのか)」
世界樹の葉。
大いなる存在に観測され続け、都合が悪ければ処理されるそれ。
「……」
今考えても何もかもが無駄だと思って、二冊の本を持ち直した。
シナモンと黴と煙草の混じったにおいは、そのうちしなくなっていた。
――
立ち尽くす銀色。
昏い布が揺れると、その姿はふっと消えてなくなる。否、瑠璃の世界に収まってしまったのだ。
「ふう。ようやく厄介払いが済んだ」
『……あとは、』
「あと?知らんよ。ただ少なくとも片方は、終わりのために動き出すさ……」
あれは私の手には負えん、そういう姿は傍から見れば不気味なひとりごとにしか見えない。
世界に抱えた無数の魂のひとつと対話していることなど、外から見ては誰もわからないのだから。
『これで救われるのかしら』
「知らん。ただ、賭けに出てもいいと言ったのはお前なのはゆめゆめ忘れるなよ」
『ええ、それは、もちろん』
対話する相手の意識が薄れているのを感じる。
「ならば良い。ではもう暫く、というかいい加減眠っていてくれないかマジで」
『あはは、ごめんなさいねー……けれどもうずっと寝ていたって別に怒らない。歪んだ形ではあったけど、一緒にいれたしね!』
「……ひとの考えることはよく分からん。ではな」
『はい。――おやすみなさい。』
散々手を焼いてきた魂がひとつおとなしくなったのを確認して、瑠璃はひとつ息を吐く。
彼女は俗にいうめんどくさいやつ、だった。瑠璃の世界に抱えた魂は、普通は生に満足したものたちなのだけれど。稀にそうでないものが混じった時に、それを解消してやるか、いっそ存在を消してしまうか、というのは実に迷うところなのだ。彼女はまだ話を聞く方であったし、何より有能だった。適度に扱き使ったりしつつここまで来て、ようやくその欲求を満たしていただいたようで、あちらこちらに行ったり手を焼いたりしたのは少なからず無駄ではなかったように思う。
「永久に穏やかにおやすみよ、咲良乃リラ。次に目覚めるときは、せめて終わりが訪れているといいな」
鈴のなる夢の行く末はもう知らない。
誰が為の自己犠牲の行く末もまた知らない。
第52回更新
物ドール Lv.30/物シルフ Lv.25/物ケットシー Lv.25/物コルヌ Lv.52/物パロロコン Lv.20/物フラウ Lv.25/物ヘカトンケイルLv.15/物オロチLv.10/物フェンリルLv.5
CLV 5144
MHP 14049/STR 886 /INT 225
MSP 1179 /VIT 364 /MND 310
PSP 99 /TEC 1245/AGI 1052