手を離してくれないのは、娘だと思っていたらそうではなかった。自分のほうだった。
小さく暖かい手がすっと離れていってしまうのが心細くて辛くて、これから重大なことをひとつ最期にやらなければならないのに、すでに心が折れそうになる。
『おとうさんのさみしんぼー』
『何だよ別に、いいじゃないか……』
久しく笑うことを忘れていたはずの顔には、何故か自然に笑顔が浮かぶ。笑い方を忘れたかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
扉を叩く音がする。そっと開いたドアの向こう、いるのは同僚。
『咲良乃さーんこんちはー』
『はいはーい。アルムほら挨拶は』
『言われなくたってするわよ!今日はよろしくおねがいします!』
これで最期だ。もう会わない。荷物を持って出ていこうとするアルムの手を掴んで引き止めて、抱き締める。
きょとんとした顔がすぐににこっと笑いかけてきて、小さな手を首に回してきた。
『頑張るんだよ』
『大丈夫よ!だって私が、いちばんすごくてつよいもの……ふふ。お父さんも頑張ってね、大好き』
ごめん。
『いってらっしゃい』
『お手紙書くわ!だからお返事ちょうだいね!』
『ああ、うん、もちろん』
叶わない口約束を、――自分が残酷に破り捨てる口約束を交わすのが何より辛い。
家を出て小さくなる背中が、ずっと手を振っていたのが見えなくなるまで玄関で見送って、目眩がした。
これから俺は、
『――ッ、くそ、くそう』
ひとりきりになった家を漁って、ネイトリエの家に繋がりそうなものを片っ端から火にくべながら、吐きそうになる。これから、俺は!!
不器用に笑う下の娘の写真も、妻が毎月ほぼかかさず送ってきてくれていた手紙も、全て何もかもを灰へ変えながら、肩で息をした。これから、やることは、精神をこれでもかと甚振ってくる。例えるのならそうやって逃げることを許さないような。
――違う。逃げているんじゃないんだ、こうやって正当に立ち向かおうとしているんだ、これが最前手のはずで、
『う、あ』
後悔と後悔とそれからまた後悔、やはりアルムを連れて逃げたほうが良かったんじゃないか、自分のやろうとしていることはひとりよがりにしか過ぎないのではないか、案外向こうでリラも何とかしてくれたのではないか、かと言って身体の弱い彼女にそこまでのことを押し付けてはならないのではないか、どっと押し寄せる思考の波を捌ききれずにふらふらとソファに座り込んで、両の手で覆った顔に液体の存在を知覚する。
もうどれだけ誰かに縋りたくってそんな相手はどこにもいない。自分から切り離して遠くに放った。覚悟を、決める、そのために。
そうしたつもりだったのに。後悔しか湧いてこないのはどうしてだ?
『……ごめん、ごめん、な、……ごめん、リラ、……アルム、ユーエ』
男は忘れていた。
人間だけをカウントすれば確かにひとりきりであるが、この家にはもうひとり、いやもう一匹、住人がいたことを。
『……先生……』
白い生き物が小首を傾げたけれども、今できることは何もなかった。
――
『……スズヒコさん最近変くねっすか』
『えっそれもう相当前からの話でなく?』
『ほら娘さん預けたって言ってたじゃん、そっから先の、なんか、頑張り具合っていうか、……なんか頑張ってるっつーより、一矢報いてそして殺すみたいな……そういう……』
『何言ってるのかさっぱり分からん』
スズヒコがいなくなった後もこのラボは相変わらずのぐだぐだを貫いており、相変わらずパライバはそこに出入りしているし(スズヒコの異動先に行くのは気が引けたのもある)、変わったことといえば本当にスズヒコの存在の有無くらいだ。
すれ違うたびに目の死に具合がやばいだとか、元から細かったのに最近輪をかけて細くなってないかとか、本人がいなくなっても話題は尽きなかったのだけど。
『パライバくん何か知らんのん?』
『わかんない……けど、家だと泣いてるか寝るか酒飲むかしかしてないよ』
やばいやつだ、それ絶対やばいやつだ、と口々に声がする。
そう言われたところで、パライバはどうしていいのかわからない。
『スズさんなー……あのひとなんか一人で背負い込むとこあるよね』
『あーわかる咲良乃さんほんとそれやばい』
ひとりでなにかしようとしているのだろうか。だとしても、分からない。
分からなくて、――くやしい。
『……』
――
最近わかったことがある。
どうやら自分は、眠っているひとに触ると、その記憶とか心の中を覗けるらしい!!なんかよくわからないけどすごい!!
それを発見した時に嬉々として伝えた覗きこんだ相手は、覗き込んだことをめちゃくちゃに怒りながらもこう言った。
『スズヒコさんで試してみて』
もしかしたら自分が少しでも彼の手助けになれるかもしれなくてと思うと小躍りしそうで、というか実際落ち着かなくて怒られたくらいだけれど。
もしそうだとしたらそれはとても嬉しい。――やっと、拾ってくれた(厳密に言うと違うらしいけれど)恩が、返せる!
そう、思いながら覗き込んだのを、すぐに死ぬほど後悔することになった。
『――せん、せ』
揺れる憎悪と殺意、日々叩きつけられる理不尽と嘲笑とそれから差別、男はもう飛び立てない。淀んだ色の空は、澄んだ空を捉えられない。
あとで知ったのだけど、ひとの心の中というのはある意味でその人が持つ世界のようなもので、その地面の色とか、空の色とか、そういうものを見ればどういう精神状態にあるのか、というのを判断することは簡単で、それを生業とする術師もいるくらいだという。
だからあの、まっくらで、誰もいない世界は。
『先生、』
暗闇の中で一人佇んでいるその姿は。
『……先生……』
どうして、そこまでを、選んだのだろう。
――
その日、ほとんどひとのいない研究室に突然の来訪者があった。薄緑の髪。見間違えようがない。
『咲良乃さん!!』
『んやっほーネディー。久しぶりでーす』
学会出張と個人的な用事が重なりまくって、その日は普段はそんなことないのに、ひとり研究室にいたのはアルムを親戚の家で預かってくれた同僚だった。
奇遇なことも、と笑む顔が、不気味に見える。
『……あ、あの、咲良乃さん?大丈夫ですか?』
『ネディー。頼みがある』
いたのが君でよかった、そう言いながら差し出したのは封筒がひとつ。さして分厚くもない中身に、大したものじゃないのだろう、と見当をつける。
『はあ、俺に』
『それ、アルムに渡しといてくれないかな。急ぎじゃない』
『ああそんなもんならお安いご用で』
今日何時くらいに帰るの、と聞く声に、首を傾げた。今までそんなこと、聞かれたことはない。
手紙は結局急ぎなのか急ぎじゃないのかどっちなんだ、とても困る。
『……手紙急ぎなんすか?今日はもう誰もいないからとっとと帰りますよそれこそ5時とか』
『急ぎ……じゃ、ない。中身大したこと書いてねえし、あんま早く読まれても困るんだよな……まあいいやそんだけ。PCR回してるのそろそろ終わる頃だから失礼するわ』
おつかれさまでーす、そう響く声に後ろ髪を引かれる思いで、部屋を出る。
大したこと書いてないとは言ったけれど、それは人による気がする中身だし、あの子がどう解釈するのかは分かったもんじゃない。アルムは聡い子だから、きっと。
『……あー、あー、はっははは、……なに、大丈夫さ、うまくいく……』
浮かべた笑みはぎこちなく、その目は笑っていなかった。
――
研究所というのは可燃物に事欠かない場所である。
それは勤めているからこそよく分かることでもあり、それが故に、――一番火の回りが遅いだろうところも検討はついていた。
鳴り響く警報と、慌てふためく足音と怒号を壁越しに聞きながら、ひどく穏やかな気持ちでいる。
『……』
ひとりふたりくらい道連れにしてやろうかとも思っていたが、いざ実行の段になってみると、そんなことはどうでもよくなった。
今から自分とて死ぬというのにも関わらず、だ。何も感じない。まだここまで火は回ってこないし、何よりこの近辺に今更来るようなひともいないから。
テーブルの上に水の入ったコップを置いて、睡眠薬の封を切っていく。
咲良乃スズヒコは、職場の研究所に火を放ったのだ。
可燃性のものがどこにあるかくらいは把握している。何ならガスバーナーの栓を開けておけばいい。自分が死んだところで逃げ遅れたひとりにしかなるまいて、もし火を放ったのが自分だと分かったとしても、家からネイトリエのリラとユーエに繋がるものは全て焼いて無くしたし、アルムを預けた先の彼女はちょっと、いやだいぶ変わった人だから、任せておけば何の心配もない、はず、なのだ。
これで何もかもから開放されるんだ。
知っている。どうせひとりよがりの、自分が逃げたいがための行動の結果だ。
知っていた。きっとこんなことをするよりか、それこそ必死でアルムと逃げたほうが、まだ自分が後悔しなくて済んだのかもしれない。
けれどもう遅いし、今更手のひらを返すわけにも行かなかった。逃げ道は全て自分で絶ったのだから。それに逃げ出したところで、今の精神状態で、――万が一にも娘と心中しない可能性がないとは、言い切れなかった。
少しばかり動くのが遅かったのかもしれない。せめて一人で来ていたら、今更悔いたところで、もう。
もう、――
『先生!見つけた、ねえ早く逃げないと、先生死んじゃうよ』
『――ッ!? パライバ!?』
予想外のいきものがドアを開けて部屋に飛び込んできて、スズヒコは面食らった。
見てくれで煤こそ付いているが火傷を負っている様子はないし、まさか類稀な耐熱性でも持っているのか。――油断していた、
『まだ逃げられそうなとこあったから、ね、先生、はやく、』
『――パライバトルマリン』
指を1本立てて、鼻先に当てる。そうするとこのいきものは途端におとなしくなり、――そして、そうしたひとの言うことを、必ず、絶対に、何があっても、聞くようになる。
そういういきものであるらしい(もしくはそう改良を施した)と記載されていた論文のとおりに、パライバは動きを止めた。
『……私はもうここで死ぬ。君はもう私にもアルムにも捕らわれなくていい、行きたいのならどこか好きなところへ行けばいい。ただ、もし、私の願いを聞いてくれるのなら』
泣きそうな声がする。
『アルムと、ユーエのことを、頼んだよ』
だから早くここから離れて行きなさい、私のことはそんなに覚えていなくていいから、あの子とその妹のために生きてくれるというのなら、そうしてくれ。そう言って、スズヒコは指を離した。
刻み込まれた命令が、ふらふらと身体を動かす。
『先生、なんで』
どれだけ異を唱えても、パライバトルマリンは受けた命令に従うしかない。
そういういきものなのだ。そういういきものだったのか、そういういきものにされてしまったのかは定かではないが、とにかく。
『先生』
『……もう、疲れたんだ、――休ませてくれ』
ドアの隙間からするりと白い生き物が出て行って、またひとりになる。
まさか、ここまで、追いすがってくるやつがいるなんて、――あれが最後の手のひらを返すチャンスだったのかもしれないのに、どうして、
『――くそ、ちくしょう、……ああああああああああああああああ!!!!』
叫んだ声は、誰にも届かない。
封を切った薬を飲み下して、脱力して壁に凭れて呆然とする。世界が揺れる。曖昧になった世界の色とないまぜになったよくわからない感情と見つめてくる空色と藍色とそれからそれから――
――
「ッ、あ!!」
ぶん、と振り払うようにして頭を振れば、ふっと現実に舞い戻ってきている。
なんてものを見せてくれたんだ、そう思って睨めつけたつもりが、呆然とした表情にしかならない。
「もういいのか」
「もういいも何も、なんだこれ、こんなの、まるで」
追体験じゃないか、そう言おうとして、そもそもの出処が自分の記憶(――と、それに関連する人間の記憶)であることを思い出して閉口した。
――忘れるように仕向けられていたんだ。先生が、そう、命令をした。
横のムトラとヘリオドールを気にする暇も余裕もなく、頭を掻いた。とりあえずわかったことは、自分がなんかの実験の末に生まれたものらしいことと、――先生は、自分で、命を絶っていた、それくらい。理解の追いつかなさが、辛い。
「……お前たちはこれで満足かよ」
ひとつそう毒づけば、淀んだ黒色が沈黙による肯定を返してきた。
第50回更新
物ドール Lv.30/物シルフ Lv.25/物ケットシー Lv.25/物コルヌ Lv.42/物パロロコン Lv.20/物フラウ Lv.25/物ヘカトンケイルLv.11/物オロチLv.10
CLV 4786
MHP 12331/STR 680 /INT 215
MSP 1056 /VIT 320 /MND 298
PSP 84 /TEC 1042/AGI 854