一揆参戦17日目

娘は不思議そうな顔で、白い生き物と顔を突き合わせていた。

『……これ?』
『そうこれ』

結局その変な生き物は、スズヒコたちの研究室で飼うことになった。
夜は誰もいなくなるから当番制で連れて帰って、土日は金曜日に連れて帰った人が世話をする。そもそも何を食べるのかも分からないけれど、意外と出されたものはなんでも食べるようだし、うっかり餌を忘れて放っておいても元気にしていたというから、摂餌は不必要なのかもしれない。

『これ、なに?』
『俺にも分からん。けど可愛いだろ』
『うん、かわいい』

白い身体といまいちどこを見ているのかわからない瞳と、それからいろいろな色がない混ぜになったたてがみと、毒々しい色の触手と、とにかくほんとうによくわからない生き物だった。
どうやらたてがみの色は接した人の髪の毛の色になるらしい。今はちょうど、前の日に連れ帰ったひとの髪の色が強く出ている。青とも緑ともつかない鮮やかできれいな色が、光の反射でゆらゆらと色を変えていた。

『ねえおとうさん』
『んーなんだい』
『この子に名前はないの?』

はっとする。
そういえば名前も何もつけていない。ただ皆に白いの白いのと呼ばれては、それに反応してついてくるから、何も心配していなかった。

『……つけてない。白いのってみんな呼んでるんだよなあ』
『じゃあわたしが名前つける!いい?』
『俺じゃなくてそっちに聞いてみな』

じい、と覗き込む空色の瞳に、白い生き物も目を合わせた。

『わたしがあなたにお名前あげるわ!ほしい?』

こくり、と頷く白い生き物、それからまたゆらゆらとたてがみの色が変わっていく。
こいつは本当に何なんだろう、そう思い始めるとキリはないのだけれど、娘が楽しそうにしているのでそれは微笑ましい。
――妹と引き離してしまって、ひとりで寂しい穴埋めにでもならないかと、思わないこともない。

『ふふー、ちょっと待っててね!』

そう言ってアルムが手に取ったのは写真付きの鉱物図鑑だった。
スズヒコのものではない。アルムがどうしてもと欲しがったから、いつだかの誕生日だかクリスマスだかに買い与えたやつだ。随分とお気に入りのようでよく眺めていたけれど、どうしようというのだろう。

『――ほら、これとか、色が似てる』

ああそういう。

『パライバトルマリン!おんなじ色よ、髪……髪?の色と。パライバトルマリン』

白いの――もとい、『パライバトルマリン』は、嬉しそうにぱたりと尾を振った。
思えばこの白いの、じゃないパライバトルマリン、鳴いてるのを聞いたことがない。声帯がないのかもしれない。

『じゃあ、今日からあなたはパライバトルマリンね!パライバって呼んだりもするわよ、覚えるのよ』

そのたてがみの色がしょっちゅう変わっているのはさすがに言い出せなかった。


――


『パライバ!!お前試薬で遊ぶなっつっただろ!!いい加減にしろよほんとに!!』
『……すいません……けどアルムが!アルムだって!!』
『ああもう分かったからあーもうほんともう何なのお前ら……実験室出禁にするぞ……』

アルムが白いのの名付け親になったことと、パライバもとてもよくアルムになついていたので、結局当番制は実に有耶無耶になり、咲良乃家に一人住人が増えたような状態になった。
夏休み、暇を持て余していたアルムをどこかに連れていける余裕もそんなになく、ならばと研究所に連れてきてみたら、研究所のことをよく知るパライバと手を組んでやることなすことが本当にえげつない。アルムはまだ、他の人に質問したりだとか静かに見てたり、時には手伝ったりだとか、他の人に対してはいい子として振る舞ってくれるのだが。――父に対してはやたらめったら容赦がないのだ。ついさっきだって、使おうと思って調製した試薬を無に還されたところだ。

『……はあーああー……いいですかパライバ、君らがそういうことすると必然的に家に帰る時間が遅くなりますお分かりですか』
『……はい。けどアルムなんかめっちゃあれやってんじゃん、いろんなひとにくっついてさあ』
『それとこれとは話は別!やっぱパライバ今日から実験室出禁』
『ええーぼく何して暇つぶしてればいいんだよおアルムだって最近遊んでくれないしさあー』

いろいろと寛容な研究室でよかったと切に思う。

『そんなん俺が知るかよ、アルムに言えアルムに』
『はあーい……』

いつの間にか言語を習得していたパライバトルマリンは、アルムと合わせて見事な悪戯っ子に育っていた。心なしか性格とか言い回しもアルムに似ている気がするし、スズヒコ的には二重に胃が痛い。
ただ、パライバを飼い始めてから明らかに学校に呼ばれる頻度は減ったし、アルムもほんとうによく笑うようになったし、そういう点では感謝をしている、のだけど。

『……せんせー』
『はあい』

実験の待ち時間、デスクにいるとだいたいパライバが寄ってくる。

『先生はなんで俺のこと拾ったの』
『……厳密に言うと拾ったのは俺じゃない。飼おうって言い出したのは俺』
『ふうん、そう、……けど、ありがとう』
『こっちこそ。……アルムが寂しそうな顔しなくなったから、感謝してるよ』

手のひらに擦り寄ってくる白い生き物が、なんだか急に可愛らしく見えて、自然と口角が上がる。
不思議そうな顔のそれの頭にデコピンひとつ。

『いでっ』
『さーほら退いた退いた、俺は実験室に行くんだ、お前は出禁だから大人しく留守番してろ』
『ちぇっ!!はあーい』


――


そういう、しょうもない時間がゆるゆる流れていくだけだと思っていたのだけれど、そうでもないらしい。現実は時に酷である。
国交断絶。高まる不安。不穏な空気。静かにその波が、スズヒコたちにも這い寄る。

『――え』
『マジすかそれ』
『マジでーす今日言われた……』
『あそこすっごいブラックって聞いてたんだけど』
『えっマジ?俺死ぬの?』

シエンティカにぽつりと取り残される形になってしまったスズヒコの、研究室の異動が唐突に決まった。
外から見れば引き抜きにも見えなくはない(――今いるところ、ちょっと個性の強い人間が集まりすぎて、お世辞にも良い評判のところではなかった)のだが、果たして実情は。

『……スズヒコさん死なないでね?』
『やめろよそんな縁起悪い』
『けど、何でなんですかね、突然』
『さあ……ただなんか行った先で新しくなんか任されるみたいなんだけど、詳しいこと聞いてないからわかんなくて……』
『なんか怪しいなあー、スズヒコさんネイトリエ人だからって潰しにきたのかな』
『うわマジやめろ洒落にならん』
『えっなに咲良乃さん死ぬの?』
『死なねえよ!!』

来た時から正直ちょっと怪しかった、ネイトリエ人に対しての扱いを、他となにひとつ変えずにしてくれたところを離れるのはだいぶ惜しい気もした。ただ断りきれなくて受けてしまったそれを今更悔いても遅いし、断れるような雰囲気でもなかったのだ。
――今思えば、少し考えれば分かることだったような気もするのに、ひと仕事終えて疲れたところにそういうことを持ってくるのは、判断させないためだったのか。

『墓には参ってやるから』
『俺ほんとお前のそういうとこきらーい』
『知ってるー今度飲み会しよ!!先に潰しとけば潰されないだろー』
『待って?ねえ待って?路線と手段が違うよ??』

風当たりが強い中でいろいろやってこれたのも、ここにいたからだ、というのを、スズヒコはすぐに実感することになった。
思い出すのは、自分がもともとそうメンタルの強い人間ではなかったということと、――本当に何故あの時、せめて少し考えさせてくださいとか、そういう言葉が出てこなかったのか、それに尽きる。


――


刺さる視線と、積み上げられていくタスクと、疲労に挟まれて息が詰まる。
案の定移動先での扱いは散々で、そもそもやってることも、それから自分に任されたことも実にグレーゾーンの中身で胃が痛い。いざという時に自分に全部押し付けて、それでなんとかするつもりなんじゃないだろうかとしか思えない。一度苦痛だと感じてしまえば実験するにも手が重く、かと言ってある程度の成果がなければしこたま怒られるわ、悪いことに娘の同級生の親と一緒だわ、何もかもが重くのしかかる。
後に知ったのは、ここがパライバトルマリンを投棄した研究室にかつて所属していたひとのところで、やらされてることは例えばそれはちょっと人道的なあれそれとか動物愛護のあれそれとかに反するようなことで、グレーゾーンなものに手を染めろと、そういうわけで。仮にここから出て行ったとして、確実に箔が付きそうな。

――潰しにかかられている。

『……ただいま、……』

日付が回ってからのそのそ家に帰ってきて、娘が寝ているのを確認してから次の日のご飯を作ってやって、それからソファで少しだけ寝る。もう若いとはいえない身体には実にしんどい所業で、疲弊した頭はろくに回りやしなかった。
かつての同じ研究室の仲間がアルムのことを心配してくれて、幸いなことにパライバもいたので、彼らのおかげで、アルムのことも、なんとかなりそうだった。――近いうちに彼女は、この家を離れて、少し離れた田舎の森の奥、同僚の親戚の家に預けられることになっている。

『……おかえりなさい、お父さん』
『アルム!?お前なんで起きてるんだ、早く寝なさい』
『明日学校お休みなのよ、振替休日』

起きていた娘の頭を一撫でしてからキッチンに立とうとするのを、引き止められる。

『自分でできるから、大丈夫』
『……アルム、』
『それよりお父さん、ソファで寝るのやめてよ、朝起きれないんなら私が起こしてあげるから、一緒に寝よう』

気遣われている。すぐに分かった。
自然な体を装ってこそいるけれど、空色の瞳に浮かんでいるのは心配の色だ。

『いや、……ベッドで寝るとほんと起きれないから……明日も早いんだ、』
『私が起こすって言ってるじゃないだから!!』
『……起きない。絶対起きない』

心苦しい。こんな心配かけるだなんて、

『……ちゃんと休んでよ。お父さんが休みの時は私がご飯作ったりするから、ちゃんと休んで』
『うん、分かった……ごめんなアルム、心配かけて』

――それすらままならないのが今。
脱却する方法を考えても八方塞がりにしか思えず、それこそアルムを連れて逃げ出すのも考えはしたけれど、穴がありすぎて無茶にしか思えない。

『……』
『ああ、アルム、ちゃんと来週の準備はしておくんだよ』
『言われなくても』

そっと娘を抱きしめる。
残してきた妻と小さい方の娘のことを考える余裕は当に失われていたし、アルムのことだって今は怪しいくらいで、だから、預けることにしたのは、自分だ。こういう状況を創りだしてしまったのは自分なんだ、
――胃が痛い。

『さ、ほら。明日休みだって言っても寝なさい』
『お父さんは』
『着替えて風呂入ったら寝るから』

『おやすみなさい、お父さん』
『おやすみアルム』

最期に交わした寝る前の挨拶。


――


『……スズヒコさん大丈夫なんすかねえ』
『俺こないだすれ違ったけど顔が死んでた』
『うわあほんとあの人そのうち倒れるんじゃないか洒落になんねえー戻ってこないかなこっち』
『ねー』
『うんほんとにねー、死ぬには惜しい人だからばったり逝かれる前になんとかなんないかなあ』
『……俺たちって無力ですね』
『おいやめろ』
『……ここも変わっちゃいましたね、昔はネイトリエだろうとシエンティカだろうと関係無かったのに』
『……そういう、時代ってことなんじゃないかなあ』
『悲しいなあ』
『……ですね』


――


決意は固い。
そうと決めてしまえば、沈んだ精神も草臥れた身体も、嫌に軽快に動く気がした。
ひとりふたりくらい道連れにする勢いで、やってやるしかないと思った。それが救いだと思っていた。
下手に逃げ出して、アルムだけでなくユーエとリラに何かしらの影響が及ぶことまで考え出したらキリはなくて、だからこそ、だからこそ自分だけで完結させる必要がある。
アルムは、アルムには、申し訳ないと思っているけれど、――これが、きっと、今、自分が父親としてできる最高で最善の手段で、それ以外の手は、逆立ちしたって思いつかない。

『ごめん』

誰も助けてくれやしない。
淀んだ空色、男はもう飛び立てない。

『……ごめん、』

誰に謝っているんだろう。
もう、なにも、分からない。

――あとは実行に移すだけだ。


――

第48回更新
物ドール Lv.30/物シルフ Lv.25/物ケットシー Lv.25/物コルヌ Lv.42/物パロロコン Lv.20/物フラウ Lv.25/物ヘカトンケイルLv.2
CLV 4370
MHP 11234/STR 614 /INT 214
MSP 1016 /VIT 257 /MND 288
PSP 82 /TEC 1022/AGI 846