躍層の下から手を伸ばす

物語のひとまずの〆は、幸せな時間で終わった。
共通の友人と鮫のぬいぐるみのおかげで生まれた接点が、そのうち同居人へ。拾われて優しくされるうちに芽生えた恋心はそのうち花を咲かせ、それは実を結んで二人を確かに縛った。六天の魔王が問いかけた誓いの言葉に確かに答えて、縛る力はなおのこと強く。

「ユーエ」
「……なあに、」

家に帰ってすっかり草臥れた様子のユーエに声をかければ、心底幸せそうな笑顔が向けられる。物語が一度閉じ行く中の花道、向けられた祝福の言葉、それから。

「本当に俺でよかったのか」

少しからかってみたくなって、そうやって意地悪な言葉をひとつ放る。藍色の目が見開かれて、言葉はするりと吸い込まれて消えていった。反射するように返される、

「アルこそ、わたしでよかったの?」

どこにも刺さらない言葉がひとつ想定した通りに返ってきて、手を伸ばして、抱きしめるだけ。答えはそれで十分だろうし、ユーエだってそれは理解しているはずなのだ。
抱きしめた肩が、おかしそうに震えていた。

「わざと、聞いたのね」
「ユーエはしょっちゅう俺に同じこと聞いてきたぜ」

気まずそうな視線が一度向けられて、それからすいと逸れていった。
本当に何度も、何度も聞かれた。きっと彼女は不安だったんだろうと思う、自分に自信がなくて、とか、聞いた気がある気がする。それでもいいと、何度も言った。ユーエだからいいんだ、と何度も言った。心の底から愛しているんだ、と。
むしろアルキメンデスのほうこそ、自分でいいのかと問いかけたくて、確認したくて、仕方ない。
――いつか来るだろう別れを彼女に体験させるのが、とてつもなく、

「だって、不安なんだもの、それに」
「……なんだ?」

伸ばされる小さい手が頬に触れて、指先が肌の上を走ってこそばゆい。

「何度聞いたって同じ答えだけど、その答えは、何度聞いたって、嬉しいのよ」

ユーエの伸ばした手はそのまま首の後ろに回されて、引き寄せられる力を感じた。そっと重ねられる柔らかな唇が、先程まで抱いていた何もかもをどうでもよくしていく。
穏やかな表情を湛える深海の色が、静かにそこにあった。

「……ったく、……ユーエはずるいなあ」


深海に、溺れる。
光の届かない世界に、引き込まれる。光はいらない。そこに、あるからだ。

躍層の下からじわりじわり、変化のない世界へ、静かに、少しずつ。
いつか来るだろう緩やかな安息と平和を願って、耕して、種を蒔くのは、


「ユーエー」

ぼんやりと、ただ何をするでもなく世界の終わりを待っていた。きっと終われば、元の世界にいるんだろう、という謎の確証があった。
呼ぶ声とともに身体を抱き寄せられて、誰がやったのかなんて今更確認しなくてもわかる。

「……、なあに、……アル……?」

頭がぼんやりする。ひどく眠い。この感覚は、前も感じたことがあった気がする。
ぼんやりした世界の向こう側から、随分と明るく元気な声がして、擦り寄ってくる感触があった。
感覚はしっかりしているのに、視界が全く定まらない。見えているのがこの世界じゃないような、そんな気分。わたしのことを離さないで、と宣いながら縋るように抱きつけば、抱きしめてくる力と、頭を撫でてくる手が確かに感じられた。

けれど、見えない。

「大丈夫だ、またすぐ会えるからさ」

そうだ、すぐに会える。またこの世界は開かれる。
そうすればまた、会える、はずなのだ、どうしてこんなに不安なのだろう。

「……すぐ、会うわ、絶対、そうする……なに、してでも……」

すぐ会える、という確証と、会えなかったらどうする、という不安が入り交ざって、どす黒い感情すら出来上がってくる。今すぐここで楽になれば、それはそれで幸せなのではとすら思う。
ただ、今それは実行できそうにはなかった。この世界からじわじわと追い出されているような、そんな感覚、指先に力が入らない。思ったように身体が動かせそうにないのが、よく分かった。

「ああ、俺達は夫婦になったんだからな」

ユーエは俺のものになったんだから、俺のところに戻ってきて当然だぜ、なんて。
当然のことのように言うそういう声も、なんとなく遠く感じる。ただ、ひどく現実味のわかないその言葉はどうしようもなくうれしくて、自然と顔は綻んだ。実感は全くない。自分たちの関係は、なにひとつ変わらない。また世界が開かれたって、同じように一緒に暮らして、ページ捲りに頭を捻りながら過ごすのだろう。今度は何が起こるのかな、また会える人も、会えない人も、新しく来る人も、いるのだろう、誰かと関わるのは、怖いけれど楽しいと思えるようになったから、恐ろしいほど自分は変わったと思う。きっと彼のおかげ、だ。
ユーエも撫でてくれー、と、そんな声がして、緩やかに手を伸ばした。手が、思ったように、動かない。普段みたいに撫でたいのに、できない。どうして?

「……あれ、……」

こわい。どうして?
せめて世界が終わるまで、いつもみたいに振る舞わせてくれたっていいのに、嫌だ。アルに、心配させたくない。どうして。

「……ユーエ、心配するな。本当に大丈夫なんだからさ」
「……違うの、……わたしは心配、してないわ、絶対戻ってくるもの、……」

知っている。大丈夫なのは知っている。絶対また会える。根拠の無い確証はあった。自分さえまた来れれば、勇者は手を広げて待っていてくれる。そんな、根拠の無い、自信。
ただ、最後くらいきちんと抱きしめてあげたいのにそれができない自分が恨めしくて、――最後?

――どうして最後だと思い込んでいるのか?

「……、……ごめんなさい嘘ついた怖いすごく怖い、……」

そのうち、きっと近いうちに、彼はこの手を離れてどこかへ行ってしまうのだろう、それも何となくではあるけれど、確信があった。彼の誕生日は知らないけれど、自分の誕生日よりは、きっと早く、そんな根拠の無い何かはあった。それは、覚悟できている。逃げられない事象だ。
じゃあ何が心配なのか、それはきっと、次に目を閉じて開いた時がその時だったらどうしよう、と思っているからだ、そうに、違いなかった。近いうちにどこかに行ってしまわれるんだったら、一時だって無駄にしたくない。離れたくない。何よりもそれが、辛くて、吐きそうで、嫌だ。何をしててでもまたここに来るって言ったくせに、わたしは。
不安とも何ともいえないそれがぽろぽろと涙腺から零れていって、そうしている間彼はただ優しく、頭を撫で続けていた。それだけでも落ち着くには十分なくらいで、彼に溺れているんだ、と改めて分かるくらいの特効薬。

だからだいじょうぶ。

「……だいすき、アル」

互いの唇を重ねることに、もう躊躇いはなかった。とてもじゃないけど恥ずかしくてできなかった頃はどこに行ってしまったんだろう、

「……ああ、俺も大好きだよ、ユーエ」

返される口付けの感覚と声が、ひどく遠かった。緩やかに、確実に、この世界から、引き剥がされている。
気を緩めれば飛びそうな意識を保ちながら、穏やかに微笑めば、自然と言葉が紡がれる。

「……どこの世界に行っても、誰よりいちばん、愛してる」

この世界でいちばん、じゃ足りなくて、かと言ってなんと言えばこの気持ちが伝わるのか分からなかった。
誰より何より愛しい人が、同意の言葉を返してきたのが、妙にはっきりと聞き取れた。



眠くてだるくて力が入らない、と言って、ずっとこうしてくれるなら寝る、と言った彼女がすとんと眠りこけてから、随分長い時間が経った気がする。
元より約束したから彼女を退かしたりどうこうするつもりはなかったものの、ユーエがそれを許さない。しっかりとアルキメンデスの身体に回された手は、眠っているはずなのにに随分と強い力で、彼の身体を押さえつけていた。
離れて行かないで、と言わんばかりに。
いつまた、どこに飛ばされてしまうのか分からないけれど、ここにいる限りは全力で彼女を護って幸せにする。どこかに飛ばされたのなら、少しでも早く、彼女を迎えに行くために、この身に受けた呪いと戦うだけだ。それは決まっているし、絶対に負ける訳にはいかない。
きっとユーエは待ち続けるのだろう。手先は器用なくせして、そういうところで不器用だ。まかり間違って自分が死んでその知らせが彼女に届いたとしても、帰りを待ち続けるだろうことは、見ていれば何となく分かった。

「……ユーエ、」

ぴし、ぱきり、

「……」

何かが砕けた音がする。
腕の中の愛しい人の姿が、確かに、ブレた。

――世界が終わる。全部砕けて真っ白になって、組み直されていくんだ。

「大丈夫、大丈夫だよ、ユーエ……」

帰る世界がある彼女は、そこに戻っていくのだろう。姿が揺らぐ頻度が確かに増えていって、自分の上にあるはずの質量も感じられなくなっていく。消えていく。

「……ッ」

大丈夫、彼女はきっと、また来る。絶対に、来てくれる。
分かっていても目の前で緩やかに消えていく姿を直視できず、ただ、抱き締めることしかできなかった。

「……ユーエ、……ユーエ」
『だいじょうぶ、よ、アル、』

そんな声が聞こえて、そして抱きしめられた気がして、顔を上げると、視界の端に薄緑の光と、桜の花弁がちらついた。
ただ、その先には、何もいない。

『すぐ来るわ』

凛とした声を残して、腕の中にいた薄緑は完璧に姿を消した。
僅かに残るぬくもりをかき消す勢いで、何かの砕ける音は強くなる。

「……ああ」

彼女が戻ってきたら一緒にハンバーグでも作ろうか、そんなことを思いながら、青の勇者はすっと立ち上がる。
白く塗りつぶされていく世界を、青がひとつ歩いて行く。






20140330
深海にはほにゃらら躍層というものがいくつかあります。ググれ。

世界の終わりの別れ際を書いたら世界が終わるより早く書き上がった(笑うところ)
更に言うとこの別れた後パライバがアルさんと本当にクソみたいなやりとりして自分がまさかのチキンロールガチ勢と化した時には草しか生えなかった。